「むらさき屋 - 大佛次郎」徳間文庫 猫のいる日々 から

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「むらさき屋 - 大佛次郎」徳間文庫 猫のいる日々 から

日本の、と断るまでもないが、歌舞伎の歴史を書いた本を見ると、その時代に出た俳優を中心のものばかりである。日本の、といえるわけは、外国では広く演劇史であって、その時々の俳優は小さくしか扱ってない。それほど歌舞伎は、役者中心であって、偉大だったかどうかわからないが、人気のあった初代市川団十郎の名前が、いつまでも歌舞伎の歴史を圧倒してしまっている。
またその他の名優にしろ評判の良かった役者の名前が二代目、三代目と相続されて、これが歌舞伎の大小の大黒柱となって今日に及んだ。何代目が先代の血をつなぐものでなく、名跡を買って、何代目かを名乗ることもまれでない。つまり歌舞伎の支柱は、役者の名前なのである。しかし、名跡のない役者には大きい役がつかないので、一貫した事実であって、この道で名家に生まれた者は、芸の資質がなくとも、主役となるのが動かぬ慣例である。
外部からはいった役者は、勢いワキに回って、二次的な立場で働くより舞台に立つ道はない。およそ古風で、封建色の抜き知れぬ世界だ。しかし御曹子といわれる若者も、子供の時から大役を課せられているうちに、自負と確信がついて、その上に、ひと月の興行に少なくとも二十五回は繰り返してその役を演じるので、これが他人では恵まれないよいけいこになって、よほどバカでない限り、自然と芸が成長する強味がある。こうして、名前は昔の大きな役者の、何代目かの俳優が舞台に生まれる。老人になるほど、芸に何かが出来上がるわけである。私は、若いのより老人の役者の芸が好きである。
この窮屈きわまる世界だから、芝居が好きでもワキに回って、一生いい役に恵まれない俳優が過去にも現在にもいくらでもかぞえられる。この人たちは歌舞伎の歴史の中には書かれない。書かれて残ったひとがあれば、これはよほどの名優で、同時代に人気のあった大名題の役者をしのぐ芸の持ち主だったのに違いない。しかし、その彼も忠臣蔵で大星由良之助になることは決して許されず、せいぜい定九郎が、斧[おの]九郎太夫の役を振られるのが最上の待遇だったのに違いない。ワキ役でいて見事な芸で、舞台をさらい、見物を喝采でわき上がらせたものだったろう。が、その事実も歌舞伎の歴史には挙げられない。芝居は一人でするものでないから、よいワキ役を得ない限り、舞台は決して面白くならない。考えれば、大切な存在である。いくらでも掛け替えがあっても、これはあの男でなくては、と内外が高く買ったワキの名優は、実際にあった。それに値する待遇を受けてないが、実は彼らによって歌舞伎がささえられてきた。十五代羽左の源氏店に、なくてはならぬワキの名人として、蝙蝠安の尾上松助がいた。その没後に大名題の役者がその役で出ても、ついに松助ほどには出来なかった。
大体これらのワキの役者が、歌舞伎の脚本であてがわれる役は、長屋の大家だったり、女に振られた悪侍だったり、そば屋の亭主だったり、平凡でつまらない役が多いが、これが生かされぬと、芝居がこわれてしまうというのは、歌舞伎の中でも、この人々は美男美女の役ではなく、ご見物の庶民に近い役で、これがうまいと、真実に客が感心するし、舞台が自分たちに近いものに信じられて、面白味もいっそう深まるからであった。古い時代だから、そうした報いられぬ端役を喜んで演じる洒落気のある人間も見つかった。呉服屋の旦那だったのが、芝居が好きでついに店を捨ててワキで舞台に立つようになった中村吉三郎のような役者も出た。今でも老優の中に、悪い仲間や番頭をやらせれば、あの男というのがいる。私が松緑に書いた「たぬき」という芝居に、この男と思ってあてて大きな役に書いた市川照蔵という役者がいた。火葬場の隠亡の役であった。これが実に、世をさとりきって、ひょうひょうとして枯れた茶気もある老爺となって傑作であった。松緑が自分で私に話したことだが、花道を二人ではいる時、大向こうから「照蔵、ピカ一!」と客の声が掛かった。「まったく」と松緑が明るく笑って私に言った。「そのとおりだったんだから、仕方ありませんよ」。主役がワキに食われていたのである。その松緑が、それを話すのにいかにもうれしそうだったのも、開放的な彼だから言えたことで、ワキでもその身分や寸評をはずさずに、舞台をさらってしまう腕の持ち主が現にいたのである。
歌舞伎は、ワキがそろわないと芝居が面白くできないとも断言できよう。そのワキ役が、今日、六十、七十過ぎた年齢の老人で幾たりか残っているだけで、後継者が出ない。戦後の人情で、割りの合わぬ下積みの仕事を甘んじてやる若者がいなくなった。皆、白塗りの勘平がやりたくて、役名もないお店者[たなもの]や、長屋の人間をやりたがらない。ちょっと舞台に出て芝居をさらって引っ込むような、技倆もないのである。国立劇場の研修生が、どこまでその割りの合わぬところに耐えて、次第に舞台を征服して行くものか?むずかしい問題だが、私は期待を失わない。ワキ役でもよい、ぜひ、立派に果たして、これはと思わせる芸の担い手になってほしい。
前の照蔵は、尾上多賀之丞さんの話によると「変わったひとでしたよ。舞台からおりて部屋にはいると、終始、寝ころんで翻訳の外国の小説ばかり読んでいました。なんでも土佐の本屋さんの息子だったようで」。私が知ったのは七十前後の年齢の老人で、新刊の翻訳書を読んでいた。人間の内容はただの白ねずみの類ではなかったのだが、そんなところは素振りも見せぬ終始にこやかな、血色のよい老人であった。なくしてみて、大きな損失を感じさせられた。もう二度と出まいと思われる芸風であった。現在も多賀蔵、新七というような、まね手のない老人たちが残っている。もう七十歳であろうが、一代ワキをつとめてきた貴重な人々である。
利根川金十郎などは、もとは小芝居の座頭ぐらいした人だろうが、今日は歌舞伎座国立劇場でワキへ回って風格ある達者な芸を見せている。九代目団十郎を舞台に出て見たというのだから、もはや八十歳かと思う。十一代市川団十郎の弟子になって枡蔵と称していたが、短気の団十郎が何か理由のないこごとをいったのを腹に据えかね、弟子の彼の方から破門して飛び出した。ひとり立ちになってから名乗った芸名が利根川金十郎である。利根川は、もとの師匠の団十郎の市川よりも大きい。団十郎に対して金十郎であった。大きな名前が、根元大歌舞伎の市川団十郎など眼中に置いてない。こうした謀叛組は、前の師匠に遠慮して使わないのが歌舞伎の世界だが、芸を惜しんで松緑君あたりがかわいがってくれ、今ではいっそう元気で舞台の役々をつとめている。
「変わったひとですよ。舞台の外で身につけるものは、帯でもネクタイでもハンカチでも紫色です。よほど紫が好きなので.....。口の悪い仲間は、正式の屋号で呼ばずに、むらさき屋と呼んで通っています。おどろいたのは、家で飼っている猫まで紫色に染めてたというのですから」。一代をワキで暮らした老人の気骨がその紫色の猫に現われている。猫とは縁のある私は、嘆息して言った。
「そいつは、猫が困ったろうなあ。それにしても何で紫色に染め上げたのだろう」。しかし、こんな老人がいるのを、私はたのもしくも面白くも思うのである。始終、ぐるりの若い連中の下手な芝居を見せつけられて我慢しているうっ噴が、利根川金十郎ともなり、また紫色の猫となって出現したのではないか?おそれられている門閥を茶にして笑っているのである。
(昭和四十七年四月)


日本の、と断るまでもないが、歌舞伎の歴史を書いた本を見ると、その時代に出た俳優を中心のものばかりである。日本の、といえるわけは、外国では広く演劇史であって、その時々の俳優は小さくしか扱ってない。それほど歌舞伎は、役者中心であって、偉大だったかどうかわからないが、人気のあった初代市川団十郎の名前が、いつまでも歌舞伎の歴史を圧倒してしまっている。
またその他の名優にしろ評判の良かった役者の名前が二代目、三代目と相続されて、これが歌舞伎の大小の大黒柱となって今日に及んだ。何代目が先代の血をつなぐものでなく、名跡を買って、何代目かを名乗ることもまれでない。つまり歌舞伎の支柱は、役者の名前なのである。しかし、名跡のない役者には大きい役がつかないので、一貫した事実であって、この道で名家に生まれた者は、芸の資質がなくとも、主役となるのが動かぬ慣例である。
外部からはいった役者は、勢いワキに回って、二次的な立場で働くより舞台に立つ道はない。およそ古風で、封建色の抜き知れぬ世界だ。しかし御曹子といわれる若者も、子供の時から大役を課せられているうちに、自負と確信がついて、その上に、ひと月の興行に少なくとも二十五回は繰り返してその役を演じるので、これが他人では恵まれないよいけいこになって、よほどバカでない限り、自然と芸が成長する強味がある。こうして、名前は昔の大きな役者の、何代目かの俳優が舞台に生まれる。老人になるほど、芸に何かが出来上がるわけである。私は、若いのより老人の役者の芸が好きである。
この窮屈きわまる世界だから、芝居が好きでもワキに回って、一生いい役に恵まれない俳優が過去にも現在にもいくらでもかぞえられる。この人たちは歌舞伎の歴史の中には書かれない。書かれて残ったひとがあれば、これはよほどの名優で、同時代に人気のあった大名題の役者をしのぐ芸の持ち主だったのに違いない。しかし、その彼も忠臣蔵で大星由良之助になることは決して許されず、せいぜい定九郎が、斧[おの]九郎太夫の役を振られるのが最上の待遇だったのに違いない。ワキ役でいて見事な芸で、舞台をさらい、見物を喝采でわき上がらせたものだったろう。が、その事実も歌舞伎の歴史には挙げられない。芝居は一人でするものでないから、よいワキ役を得ない限り、舞台は決して面白くならない。考えれば、大切な存在である。いくらでも掛け替えがあっても、これはあの男でなくては、と内外が高く買ったワキの名優は、実際にあった。それに値する待遇を受けてないが、実は彼らによって歌舞伎がささえられてきた。十五代羽左の源氏店に、なくてはならぬワキの名人として、蝙蝠安の尾上松助がいた。その没後に大名題の役者がその役で出ても、ついに松助ほどには出来なかった。
大体これらのワキの役者が、歌舞伎の脚本であてがわれる役は、長屋の大家だったり、女に振られた悪侍だったり、そば屋の亭主だったり、平凡でつまらない役が多いが、これが生かされぬと、芝居がこわれてしまうというのは、歌舞伎の中でも、この人々は美男美女の役ではなく、ご見物の庶民に近い役で、これがうまいと、真実に客が感心するし、舞台が自分たちに近いものに信じられて、面白味もいっそう深まるからであった。古い時代だから、そうした報いられぬ端役を喜んで演じる洒落気のある人間も見つかった。呉服屋の旦那だったのが、芝居が好きでついに店を捨ててワキで舞台に立つようになった中村吉三郎のような役者も出た。今でも老優の中に、悪い仲間や番頭をやらせれば、あの男というのがいる。私が松緑に書いた「たぬき」という芝居に、この男と思ってあてて大きな役に書いた市川照蔵という役者がいた。火葬場の隠亡の役であった。これが実に、世をさとりきって、ひょうひょうとして枯れた茶気もある老爺となって傑作であった。松緑が自分で私に話したことだが、花道を二人ではいる時、大向こうから「照蔵、ピカ一!」と客の声が掛かった。「まったく」と松緑が明るく笑って私に言った。「そのとおりだったんだから、仕方ありませんよ」。主役がワキに食われていたのである。その松緑が、それを話すのにいかにもうれしそうだったのも、開放的な彼だから言えたことで、ワキでもその身分や寸評をはずさずに、舞台をさらってしまう腕の持ち主が現にいたのである。
歌舞伎は、ワキがそろわないと芝居が面白くできないとも断言できよう。そのワキ役が、今日、六十、七十過ぎた年齢の老人で幾たりか残っているだけで、後継者が出ない。戦後の人情で、割りの合わぬ下積みの仕事を甘んじてやる若者がいなくなった。皆、白塗りの勘平がやりたくて、役名もないお店者[たなもの]や、長屋の人間をやりたがらない。ちょっと舞台に出て芝居をさらって引っ込むような、技倆もないのである。国立劇場の研修生が、どこまでその割りの合わぬところに耐えて、次第に舞台を征服して行くものか?むずかしい問題だが、私は期待を失わない。ワキ役でもよい、ぜひ、立派に果たして、これはと思わせる芸の担い手になってほしい。
前の照蔵は、尾上多賀之丞さんの話によると「変わったひとでしたよ。舞台からおりて部屋にはいると、終始、寝ころんで翻訳の外国の小説ばかり読んでいました。なんでも土佐の本屋さんの息子だったようで」。私が知ったのは七十前後の年齢の老人で、新刊の翻訳書を読んでいた。人間の内容はただの白ねずみの類ではなかったのだが、そんなところは素振りも見せぬ終始にこやかな、血色のよい老人であった。なくしてみて、大きな損失を感じさせられた。もう二度と出まいと思われる芸風であった。現在も多賀蔵、新七というような、まね手のない老人たちが残っている。もう七十歳であろうが、一代ワキをつとめてきた貴重な人々である。
利根川金十郎などは、もとは小芝居の座頭ぐらいした人だろうが、今日は歌舞伎座国立劇場でワキへ回って風格ある達者な芸を見せている。九代目団十郎を舞台に出て見たというのだから、もはや八十歳かと思う。十一代市川団十郎の弟子になって枡蔵と称していたが、短気の団十郎が何か理由のないこごとをいったのを腹に据えかね、弟子の彼の方から破門して飛び出した。ひとり立ちになってから名乗った芸名が利根川金十郎である。利根川は、もとの師匠の団十郎の市川よりも大きい。団十郎に対して金十郎であった。大きな名前が、根元大歌舞伎の市川団十郎など眼中に置いてない。こうした謀叛組は、前の師匠に遠慮して使わないのが歌舞伎の世界だが、芸を惜しんで松緑君あたりがかわいがってくれ、今ではいっそう元気で舞台の役々をつとめている。
「変わったひとですよ。舞台の外で身につけるものは、帯でもネクタイでもハンカチでも紫色です。よほど紫が好きなので.....。口の悪い仲間は、正式の屋号で呼ばずに、むらさき屋と呼んで通っています。おどろいたのは、家で飼っている猫まで紫色に染めてたというのですから」。一代をワキで暮らした老人の気骨がその紫色の猫に現われている。猫とは縁のある私は、嘆息して言った。
「そいつは、猫が困ったろうなあ。それにしても何で紫色に染め上げたのだろう」。しかし、こんな老人がいるのを、私はたのもしくも面白くも思うのである。始終、ぐるりの若い連中の下手な芝居を見せつけられて我慢しているうっ噴が、利根川金十郎ともなり、また紫色の猫となって出現したのではないか?おそれられている門閥を茶にして笑っているのである。
(昭和四十七年四月)