「専門バカと普通のバカ - 中島義道」新潮文庫 私の嫌いな10の人びと から

f:id:nprtheeconomistworld:20191219091426j:plain


「専門バカと普通のバカ - 中島義道新潮文庫 私の嫌いな10の人びと から

「おれ、バカだから」と言う人って、じつはほんとうにバカなのです。バカであることはその言動のすべてから明らかであるのに、話がややこしくなるとすぐこう言う。そして、窮地を逃れようとする。こんな人には、上段から構えて、「あなたがバカであることは、とうにわかっているのです。さっきから、バカにもわかるように話しているんです」と言いたくなる。
なぜ、私はこういう人が嫌いか?誤解してはなりませんが、私はかならずしもバカが嫌いであるわけではありません。私のまわりには、むしろバカとは正反対の人々、つまり利口が多いのですが。そういう人びとの中でも、どうしても好きになれない人は多い。というより、ほとんどです。なぜなら、私は自分のことを「偉い」と思っている人はみんな嫌いだからです。前にも見ましたが、学者や技術者や作家や芸術家など一芸に秀でた者、あるいは官僚や大企業の重役や大学教授や医者や弁護士や公認会計士など社会的ステイタスが高いとされる職業に就いている人のほとんどは、こう思っています。そう思わないように日々からだからその臭みを消していく努力をしなければならないはずなのに、そういう訓練を自分に課している人はほんの一握りであって、みんなごく素朴にいばる。
一芸に秀でた人、とくにそれによって社会的に成功した人は、一芸に秀でるために、人間として必要なさまざまな訓練を怠ってきたことを認めなければならない。人間としては、いびつでほとんど奇形に近く、そのことを恥じなければならない。それなのに、単にテニスができるだけの男が、単に料理がうまいだけの男が、単なる落語家が、単なる漫画家が、テレビに登場してきて、人生万端とうとうと意見を述べる。こういう鈍感な輩が大嫌いということです。
まあ、学者のほとんどが人格破綻者だということは昔から言われていますが、それはそれでかまわない。学問に身を捧げるにはそのくらいの犠牲は必要なのかもしれない。だから、彼らは自分の専門外のことにべらべら口を出すべきではない。それをなんとかんちがいしたか、人生の達人であるかのようなふるまいに出る。同様に、単なる写真家が、単なる歌手が、単なる俳優が、テレビに出て、自殺した者の心理状態を分析し、残酷な少年犯罪についてしゃべり散らし、それでいて何の羞恥の念もない。そういう輩が、正真正銘の専門バカなのです。
世界的な数学者が、自分の専門以外のことは何一つとして知らない、これはただちには専門バカではない。彼がそのことを腹の底まで自覚して、自分を欠陥人間だと自認し、専門外のことには首を突っ込まないように自重しているかぎり専門バカではない。かつて数学者の小平邦彦が、誰かから専門バカ呼ばわりされつ、「世の中には専門バカと普通のバカがいるだけだ!」と怒鳴ったという話は有名(?)ですが、この小平さんの言葉にはなかなか含蓄がある。ほとんどの専門家は、自分の専門において達人であるからこそ、ほかの分野では凡人以下である、このことを自覚していない。だが、同じように、ほとんどの非専門家は、自分が何の専門家でもないことを恥じながらも、専門家に対して激しい嫉妬の感情を抱く。なにしろ、彼らを引きずりおろしたいのです。彼らが「専門家はバカだな」と言った瞬間に、その言葉はぐるっと巡ってその矛先が自分自身に向けられる。専門家と同じく自分もバカであることを自覚していない、専門家ではないから自分はバカから免れてると思い込んでいるどうしようめないバカさ、これが「普通のバカ」なのです。
このように、バカの方が、利口より偉いかのような、人間として上等であるかのような、しかもルサンチマン(恨み)にまみれた、いっさいの真実な問いかけを拒否するような、その怠惰な態度が、私は大嫌いなのです。