「コミケット・世界最大のマンガの祭典 - 米沢嘉博」宝島社文庫 「おたく」の誕生 から

f:id:nprtheeconomistworld:20191221082620j:plain


コミケット・世界最大のマンガの祭典 - 米沢嘉博宝島社文庫 「おたく」の誕生 から

共通語としてのマンガ

まず、わかってもらわなければならないのは、同人誌とは自己表現のためのメディアであり、コミケットとはそうした同人誌を一般に向けてアピールする場であるということだ。二十年前ならいざ知らず、マンガは低俗な子供のための娯楽である、などと斬り捨てる人はもういないだろう。手塚治虫によって体系化され、物語を語るのみならず、あらゆるテーマを扱い、メッセージさえも伝達することができるようになったマンガは、若い世代(といっても上は四十歳代半ばから下は小学生までを含む)にとって、もっとも慣れ親しんだ、しかも手軽な表現なのである。
子どもたちの多くが、マンガを描く。紙と筆記用具さえあれば充分なそれは、読むことの学習によって、たやすく行なうことのできる表現である。本物とエピゴーネンとに区別される“芸術”と違い、マンガは模倣から始まる。なぜなら、マンガとは、語るための方法だからだ。語りたいものがある時、あるいは語りたいという欲求がある時、彼らは、自分の好みのスタイル(絵・etc)を用いて、マンガを描くのだ。
体系からはずれた真のオリジナリティでは、語りたいものを伝えにくい。半ば言語に似た、マンガ表現の方法は、それゆえに、見た目には亜流の氾濫と映るだろう。だがしょせん、マンガにおけるオリジナリティとは、絵のクセや語り方の差異でしかない。そして、マンガにおけるプロとアマの差は、テクニックの差であり、商品性の有無であり、チャンスにめぐまれたかそうでないかの差なのである。
子どもの落書きであろうが、ベテランの職人芸によるそれであろうが、どちらも「表現」という点では同じだ、とまでは言わないにしても、マンガとは表現したいという欲求の表出なのである。そして、マンガを描くことをおぼえた子どもたちは、語りたがるのだ。ペン先から生まれていく世界に、自らの想像力が形になっていく興奮に、物語ることの悦びに、夢中になるのだ。やがて、これらのマンガは、必要最低限のレベル、つまり、人にモノを伝えることができるだけの体裁を整えてゆく。
しかし、それが商業作品として売れるかどうかはわからない。マンガは、表現であると同じくらいの意味で商品でもある。こうした、マンガの持つ特性をまずわかってもらえないと、同人誌やコミケットの意味は、わからないかもしれない。 - 戦後世代は、マンガという語るための方法を与えられたことによって、ひとつの自己表現の手段を手に入れたのだ。それは、金もかからず、個人作業ででき、しかも、宇宙や時間という巨大なテーマから、日常のレポートまで、あらゆることを扱うことを可能にしたのである。
ただ、ここで「自己表現」「メッセージ」という言葉の持つ意味を、昔風の矮小なイメージで捉えてほしくない。それは、反原発反戦、反天皇といったものから、愛やリビドー、趣味やこだわり、気持ちいいとか悪いとかの感覚、面白いこと.....までありとあらゆるものを含んでいる。自分が面白いと思ったことを、他人に伝えて面白がってもらう、心地の良さの共有.....それらは、メッセージであると共に、コミュニケーションでもあるだろう。そうした、マンガを通じて行なえるすべてが、この「自己表現」のなかには含まれている。
 
マンガ同人誌の始まり

マンガ同人誌は、その発生時、つまり石森章太郎赤塚不二夫がはじめた頃には、プロへの習練の場であり、肉筆回覧誌という形態だった。それは、六〇年代頃まで続く。同人誌は、文字通り同人の内部のもので、現在のように不特定多数に向けて出されるようなものではなかった。ガリ版は、マンガの印刷をするのには向いていなかったのだ。
それが変化しはじめるのは、七〇年あたりのミニコミブームの頃だ。コピー機や簡易軽オフの登場もあって、大手のサークルのなかには、オフセットで同人誌を作り、一般に向けて頒布するというところも出てくる。そうして、同人内でも、コピー誌を一部ずつ配布できるようになり、個人で同人誌が所有できるようになったわけだ。こうした状況のなか、七五年に、混迷するマンガ状況の変革を求めたマンガ批評集団「迷宮」によって、実践活動のひとつとしてコミックマーケットがはじめられるのである。
大手出版社による週刊誌とわずかの月刊誌しかなかった時代である。デビューの場は限られていたし、オイルショックの影響も残っていて、本は薄かった。人気連載しか単行本化されず、毛色の変わったマンガはけっして載ることはなかった。難しいテーマや語り口、流行から外れた絵柄は、すべて同人誌臭いマンガとして、出版社から斬り捨てられる時代だったのだ。
そうした作品を発表し、読者にアピールする場は同人誌しかなかった。商業誌の枠を超えた新たなマンガの可能性と出会える場は、本当に同人誌しかなかったのである。七四年から七七年にかけての同人誌界には、たとえば、いしいはさいちがいた。彼の「ohバイト君」の笑いは、まだ同人誌内のものだった。他にも、柴門ふみさべあのま高野文子高橋葉介高橋留美子、高口里純、めるへんめーかー.....。みんな初期のコミケットの同人誌の描き手たちだ。彼らのような異色の才能には、まだ同人誌という場しかなかったのである。

ひそやかな始動

コミケットの理念と目的は次の通りだ。
「マンガやアニメおよびその周辺ジャンルにおける表現の可能性を追求する場としての同人誌、それを一般に向けてアピールする場がコミケットであり、場の確保を通じて、描き手たちの営為を充分に反映させていくことを目的とする。それは新たな可能性を求める人々が作品と出会える場を恒久的に用意していくことだ。プロや既成の物にはない新しい形でのマンガ、アニメの展開を結実させてゆくためのファン活動、創作活動を行なう人たちのために、出会いを通じて刺激を与えていく活性剤の役割を果たすことが必要である。また、参加者はすべて同じ立場に立つことで、平等にコミュニケーションできる状況を創り出すこと。それは人間、メディア、作品すべてが『表現』であることを前提とした、十全なる交流であらねばならない.....」
こうして、七五年十二月、虎ノ門消防ホールにおいて第一回コミックマーケットが開かれた。参加サークル数三十二、入場者数六百人、それが始まりだったのである。