「なぜ作文の「技術」か(一部抜き書き) - 本多勝一」朝日文庫 日本語の作文技術 から

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「なぜ作文の「技術」か(一部抜き書き) - 本多勝一朝日文庫 日本語の作文技術 から

日本語の作文を日本人が勉強することも、このような外国語作文の原則と少しも変わらない。私たちは日本人だから日本語の作文も当然できると考えやすく、とくに勉強する必要がないと思いがちである。しかしすでに先の実例でもわかる通り、書くことによって意思の疎通をはかるためには、そのための技術を習得しなければならない。決して「話すように」「見た通りに」書くわけにはいかない。イギリス語作文でコンマをどこにうつかを考えるのと全く同様に、日本語作文では読点をどこにうつべきかを考えなければならない。このあたりのことを清水幾太郎氏は『論文の書き方』の中で次のように書いている。

私たちは日本語に慣れ切っている。幼い時から、私たちは日本語を聞き、日本語を話し、日本語を書き、日本語で考えて来た。私たちにとって、日本語は空気のようなもので、日本語が上手とか下手とかいうのさえ滑稽なほど、私たちはみな日本語の達人のつもりでいる。いや、そんなことを更めて考えないくらい、私たちは日本語に慣れ、日本語というものを意識していない。これは当り前のことである。しかし、その日本語で文章を書くという時は、この日本語への慣れを捨てなければいけない。日本語というものが意識されないのでは駄目である。話したり、聞いたりしている間はそれでよいが、文章を書くという段になると、日本語をハッキリ客体として意識しなければいけない。自分と日本語との融合関係を脱出して、日本語を自分の外の客体として意識せねば、これを道具として文章を書くことは出来ない。文章を書くというには、日本語を外国語として取扱わなければいけない。

要するに一つの建築みたいにして作りあげるのである。建築技術と同じよいな意味での「技術」なのだ。なんだか大げさで、えらいことのようだけれど、作文は技術だからこそまた訓練によってだれでもができるともいえよう。清水幾太郎氏のこの本は、かけだし記者のころの私も読んでたいへん参考になったが、題名は「論文の.....」よりも「文章の書き方」とか「作文の方法」とすべきだと思った。
しかしこの優れた作文論にも、日本語というもののシンタックス(統語法・統辞法・構文)や文化的背景の理解に関しては限界がある。たとえば久保栄の作品『のぼり窯』の文章を引用しつつ、その意図を肯定しながらも悲観的で「特殊な語順を初めとする日本語の特色」というような事実に反する記述を基礎に「日本語に負わされた運命というものを考えて、私は陰気な気分になってしまう」と清水氏は告白している。
清水氏にしてさえもこうした告白をしているのだ。これでは一般の間に日本語は「特殊」だとか、あるいはヨーロッパ語に比べて「論理的でない」といった俗説がはびこっているのも当然であろう。「特殊な語順」というような全くの誤りは、日本の知識人の知識が西欧一辺倒であって、ひざもとのアジアはもちろん、日本国内のことさえもいかに無知であるかをさらけだしている。国内でいえばアイヌ語をみよ。一番近い隣国として朝鮮語をみよ。いずれも日本語と同じ語順だ。アジアではインドやトルコをはじめ日本語式の語順がむしろ普通だし、ヨーロッパでもバスク語が同じだし、アフリカにもたくさんある。エスキモー語などはもっと徹底した「特殊」ぶりであろう。「陰気な気分になってしまう」のは、このような西欧一辺倒知識人の無知を見るときではなかろうか。
それにしても、たとえば私なども学生時代に読んだ金田一春彦氏の『日本語』は、岩波新書という大衆的な本のひとつである。そこには日本語の語順の少しも特殊ではないことが、世界諸言語との比較の上で書かれている。これはもはや常識ではなかろうか。「日本語は論理的でない」という俗説もこれに近い種類の妄言であろう。この種の俗説を強化するのに役立っている西欧一辺倒知識人 - 私は植民地型知識人と呼ぶことにしている - の説を分析してみると、ほとんどの場合、ヨーロッパという一地域にすぎない地方の言葉やものの考え方によって日本語をいじっていり。極論すれば、メートル法ヤード・ポンド法で日本建築を計測して「これは間尺に合わぬ」と嘆いているのである。こういう馬鹿げた日本語論は、私たち「愛国的」日本人としてはとうてい受け入れがたい。この俗論は事実として誤っていることを、私たちの母語を守るために、具体的に示していく必要がある。あらゆる言語は論理的なのであって、「非論理的言語」というようなものは存在しない。言語というものは、いかなる民族のものであろうと、人類の言葉であるかぎり、論理的でなければ基本的に成立できないのだ。「フランス語がフランス社会で役立っているのと同じように、ホッテントット語はホッテントット社会に役立っている」(千野栄一言語学の散歩』)。ホッテントット社会では、フランス語はまるで「非論理的」であろうし、仮りに意味はわかってもその社会に無用の言葉が多いばかりで、必要な言葉は不足しているだろう。その意味では言語とはすなわちその社会の論理である。そして日本語の論理や文法は、ヨーロッパ語の間尺で計測することはできない。同じことは音楽でも美術でも、要するに文化全体についていえることであって、もしフランス語が論理的で日本語が非論理的だというなら、そのように考えるのと全く同じ次元の論理によって、反対に「日本語こそ論理的で、フランス語はまことに非論理的だ」ということも可能なのである。げんに佐久間鼎氏は、日本語の方がヨーロッパ語よりも論理的だとしており、アリストテレス=スコラの個展形式論理学の非論理性は、むしろ日本語の立場からこそ批判するのに有利なのに、ヨーロッパ語的表現様式で曲げられた形式論理に日本の学者が追随した結果、とんでもない偏見を広めてしまったとみる(『日本語の言語理論』)

以下略