「海外に出て行く。新しいフロンティア(抜き書き其の一) - 村上春樹」新潮文庫 職業としての小説家から

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「海外に出て行く。新しいフロンティア(抜き書き其の一) - 村上春樹新潮文庫 職業としての小説家から

僕の作品が本格的にアメリカに紹介され始めたのは、一九八〇年代も終わりに近い頃で、「講談社インターナショナル」(KI) から英語版『羊をめぐる冒険』がハードカバーで翻訳出版され、雑誌「ニューヨーカー」に短編小説がいくつか採用・掲載されたのが始まりでした。当時、講談社はマンハッタンの中心地にオフィスを持っていて、現地で編集者を採用し、かなり積極的に活動をおこなっていました。アメリカでの出版事業に本格的に乗り出そうとしていたわけです。この会社はたしか後に「講談社アメリカ」(KA)となります。詳しい事情はよくわかりませんが、講談社の子会社で現地法人ということになると思います。
エルマー・ルークという中国系アメリカ人が編集の中心になり、ほかにも何人かの有能な現地スタッフ(広報や営業のスペシャリスト)がいました。社長は白井さんという方で、日本式なうるさいことはあまり言わず、アメリカ人スタッフにできるだけ自由に活動させてくれるタイプの人でした。だから社風もけっこうのびのびしていた。アメリカ人スタッフはずいぶん熱心に僕の本の出版をバックアップしてくれました。僕も少しあとになって、ニュージャージー州に住むようになったので、ニューヨークに出かけたときにはブロードウェイにあるKAのオフィスに寄り、彼らと親しく話をしたものです。日本の会社というより、雰囲気はアメリカの会社に近かった。全員が生粋のニューヨーカーで、いかにも元気が良くて有能で、一緒に仕事をしていておもしろかった。その時代のあれこれは、僕にとって楽しい思い出になっています。僕もまだ四十歳になって間もない頃だったし、いろんな面白いことがありました。今でも彼らの何人かとは親交があります。
ルフレッド・バーンバウムの新鮮な翻訳のおかげもあって、『羊をめぐる冒険』は予想以上に評判がよく、「ニューヨーク・タイムズ」も
大きく取り上げてくれたし、ジョン・アップダイクは「ニューヨーカー」に長い好意的な評論を書いてくれたのですが、営業的には成功には程遠かったと思います。「講談社インターナショナル」という出版社自体がアメリカではまだ新参だったし、僕自身ももちろん無名だったし、そういう本は書店が良い場所に置いてくれません。今みたいに電子ブックとか、ネット通販みたいなものがあればよかったのかもしれませんが、そんなのはまだ先の話です。だからある程度話題にはなったけれど、それがそのまま売り上げには直結しなかった。この『羊をめぐる冒険』は後にヴィンテージ(ランダムハウス)からペーパーバック版が出て、そちらは着実なロングセラーになっていますが。
続いて『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』『ダンス・ダンス・ダンス』を出したのですが、それらもやはり批評的には良かったし、それなりに話題にはなったものの、全体的にいえば「カルト的」なところに留まって、やはり売れ行きにはもうひとつ結びつかなかった。その当時、日本の経済は絶好調で、『ジャパン・アズ・ナンバーワン』というような本まで出て、いわゆる「行け行け」の時代だったのですが、ことカルチャーに関してはそれほど広がりを持っていませんでした。アメリカ人と話をしても、話題になるのはだいたい経済問題で、文化関係は話題としては盛り上がらなかった。坂本龍一さんや吉本ばななさんなどは当時から名前を知られていましたが、(ヨーロッパはともかく)少なくともアメリカ市場においては、人々の目を日本のカルチャーに積極的に向けさせる流れを作るまでにはいたらなかった。極端な言い方をすれば、日本は「金はふんだんに持っているけど、よく得体の知れない国」みたいなものとして、その当時は捉えられていたわけです。もちろん川端や谷崎や三島を読んで、日本文学を高く評価する人たちはいましたが、そういう人たちは結局のところ、ほんの一握りのインテリです。だいたいが都市部の「高踏的」な読書人です。
だから「ニューヨーカー」に僕の短編小説が何本か売れたときはすごく嬉しかったんだけど(その雑誌を愛読してきた僕にとっては夢のような出来事だったから)、残念ながらそこからもう一段階ブレークすることはできませんでした。ロケットでいえば、初速はよかったんだけど、二段階目のブーストがきかなかった。ただそれ以来今日に至るまで、僕と「ニューヨーカー」誌との友好的な関係は、編集長や担当編集者が交代しても変化することなく、その雑誌は僕にとっての、アメリカにおける心強いホーム・グラウンドになりました。彼らは僕の作品スタイルを、ことのほか気に入ってくれたようで(「社風に合った」ということなのかもしれません)、「専属作家契約」というものを結んでくれました。あとでJ・D・サリンジャーが同じ契約を結んでいたことを知って、少なからず光栄に思いました。
「ニューヨーカー」に掲載された僕の最初の作品は短編小説『TVピープル』で(1990/9/10)、以来二十五年間に全部で二十七作品が採用・掲載されました。「ニューヨーカー」編集部の作品の採用・非採用の判定はとても厳正なもので、相手がどれほど有名な作家であれ、どれほど編集部と親しい作家であれ、雑誌の設定した基準や好みに合わない(とされる)作品はあっさり却下されます。サリンジャーの『ズーイ』でさえ、全員一致の判断で却下されました(編集長ウィリアム・ショーンの尽力によって結局掲載されましたが)。もちろんぼくの作品だって何度も却下されています。そのへんは日本の雑誌とはずいぶん違います。しかしそのような厳しい難関をくぐり抜け、作品がコンスタントに「ニューヨーカー」に掲載されることを通じて、アメリカの読者を開拓していくことができたし、僕の名前もだんだん一般に浸透していきました。その効果は大きかったと思います。
「ニューヨーカー」という雑誌の持つプレスティッジと影響力は、日本の雑誌からはちょっと想像できないくらい強力なものです。アメリカでは日本で小説を百万部売ったとか、「なんとか賞」をとったとか言っても「へえ」で終わりますが、「ニューヨーカー」に作品がいくつか掲載されたというだけで、人々の対応ががらりと変わってきます。そのようなランドマーク的な雑誌がひとつでも存在している文化というのはうらやましいなと、よく思います。