「海外に出て行く。新しいフロンティア(抜き書き其の四) - 村上春樹」新潮文庫 職業としての小説家 から

f:id:nprtheeconomistworld:20191229083403j:plain


「海外に出て行く。新しいフロンティア(抜き書き其の四) - 村上春樹新潮文庫 職業としての小説家 から

話を元に戻します。
大手出版社クノップフから単行本が出され、系列会社であるヴィンテージからペーパーバック版が発売され、時間をかけてラインアップが整備されていくにつれて、アメリカ国内における僕の本の売り上げは徐々に、しかし着実に伸びていきました。新刊が出れば、ボストンやサンフランシスコといった都市の新聞のベストセラー・リスト上位に着実に食い込むようになりました。僕の本が出版されると、それを買って読んでくれる読者層が - 日本の場合とだいたい同じような具合に -アメリカでも形成されていったわけです。
そして二〇〇〇年を過ぎて、作品で言えば『海辺カフカ』(アメリカでは二〇〇五年に出版)のあたりから、僕の新刊は「ニューヨーク・タイムズ」の全米ベストセラー・リストに、あくまで末席からではありますが、顔を出すようになってきました。つまり東海岸・西海岸のリベラル傾向の強い大都市エリアだけでなく、内陸部をも含んで、僕の小説スタイルが全国的に受け入れられるようになってきたということです。『1Q84』(米出版二〇一一)がベストセラー・リスト(フィクション・ハードカバー)の二位になり、『色彩を持たない多崎つくると 彼の巡礼の年』(同二〇一四)が一位になりました。でもここまで来るにはずいぶん長い歳月を要しました。一発で派手にどんと当てたわけではない。ひとつひとつ作品を地道に積み重ね、ようやく地歩を固めることができたという感じです。またそれにつれて、ペーパーバックの旧作も活発に動くようになってきました。好ましい流れが作り出されたわけです。

でも最初の段階でより目立ったのは、アメリカ国内での動きよりは、むしろヨーロッパ市場における僕の小説の発行部数の増加でした。ニューヨークを海外出版のハブ(中軸)に置いたことが、どうやらヨーロッパでの売り上げの伸びに繋がったようでした。それは僕にも予測できなかった展開でした。正直なところ、ニューヨークというハブのもつ意味がそこまで大きいとは考えなかった。僕としてはただ「英語なら読める」という理由で、またたまたまアメリカに住んでいたという理由で、アメリカをとりあえずホーム・グラウンドに設定しただけなのですが。
アジア以外の国で、まず火がついたのはロシアや東欧で、それが徐々に西進し、西欧に移っていったという印象があります。一九九〇年代半ばのことです。実に驚くべきことですが、ロシアのベストセラー・リスト十位の半分くらいを僕の本が占めたこともあったと聞いています。
これはあくまで僕の個人的印象であり、確かな根拠・例証を示せと言われても困るのですが、歴史年表とつきあわせて振り返ると、その国の社会の基盤になにかしら大きな動揺(あるいは変容)があった後に、そこで僕の本が広く読まれるようになる傾向が世界的に見られたという気がします。ロシアや東欧地域で僕の本が急速に売れ始めたのは、共産主義体制の崩壊という巨大な地盤変化のあとでした。これまで確固として揺るぎなく見えた共産党独裁のシステムがあっけなく崩壊し、そのあとに希望と不安をないまぜにした「柔らかなカオス」がひたひたと押し寄せてくる。そのような価値観のシフトする状況にあって、僕の提供する物語が新しい自然なりリアリティーのようなものを急速に帯始めたのではないかと思うのです。
またベルリンの東西を隔てる壁が劇的に崩壊し、ドイツが統一国家となって少ししたあたりから、僕の小説はドイツでじわじわと読まれるようになったみたいです。そういうのはもちろんただの偶然の一致に過ぎないかもしれません。でも思うのですが、社会基盤・構造の大きな変更が、人々が日常的に抱いているリアリティーのあり方に強い影響を及ぼし、また改変を要求するというのは当然のことであり、自然な現象です。現実社会のリアリティーと物語のリアリティーは、人の魂の中で(あるいは無意識の中で)避けたく通低しているものなのです。どのような時代にあっても、大きな事件が起こって物語というのはもともと現実のメタファーとして存在するものですし、人々は変動する周囲の現実のシステムに追いつくために、あるいはそこから振り落とされないために、自らの内なる場所に据えるべき新たな物語=新たなメタファー・システムを必要とします。その二つのシステム(現実社会のシステムとメタファー・システム)をうまく連結させることによって、言い換えるなら主観世界と客観世界を行き来させ、相互的にアジャストさせることによって、人々は不確かな現実をなんとか受容し、正気を保っていくことができるのです。僕の小説が提供する物語のリアリティーは、そういうアジャストメントの歯車として、たまたまグローバルにうまく機能したのではないか - そんな気がしないでもありません。もちろんこれは、繰り返すようですが、僕の個人的な実感に過ぎません。しかしまったく的外れな意見でもないだろうと考えています。
そう考えれば、日本という社会は、そのような総合的なランドスライド(地滑り)を、欧米社会よりもむしろ早い段階で、ある意味では自明のものとして、自然に柔らかく察知していたのではないかという気もします。僕の小説は欧米よりも早く、日本で - 少なくとも日本の一般読者に - 積極的に受け入れられていたわけですから。それについては、中国や韓国や台湾といった東アジアのお隣の国々についても同じことが言えるかもしれません。日本以外でも、中国や韓国や台湾の読者たちはかなり早い段階から(アメリカやヨーロッパで認められる前から)、僕の作品を積極的に受け入れ、読んできてくれました。
それらの東アジアの国々においては欧米に先だち、社会的ランドスライドが人々のあいだで、既にリアルな意味を持ち始めていたのかもしれません。それも欧米のような「何か事件が起こって」という急激な社会変動てばなく、時間をかけたよりソフトな地滑りとして。つまり経済的に急成長を遂げるアジア地域においては、社会的ランドスライドは突発事件ではなく、この四半世紀ほどに関して言えば、むしろ恒常的な継続状況であったということになるかもしれません。
もちろんそんな風に簡単に断言してしまうにはいささか無理があるでしょうし、そこには他の要因も様々にあるはずです。しかし僕の小説に対するアジア諸国の読者の反応と、欧米諸国の読者の反応のあいだに少なからぬ相違が見受けられるのも、また確かです。そしてそれは「ランドスライド」に対する認識や対応性の相違に帰するところが大きいのではないかと思います。また更に言うなら、日本や東アジア諸国においては、ポストモダンに先行してあるべき「モダン」が、正確な意味では存在しなかったのではないかと。つまり主観世界と客観世界の分離が、欧米社会ほど論理的に明確ではなかったのではないかと。しかしそこまでいくと話が広がりすぎるので、その論議はまた別の機会に譲りたいと思います。社会のリアリティーが大きくシフトするとき、それは物語のリアリティーのシフトを、いわば裏打ちのように要求します。
物語というのはもともと現実のメタファーとして存在するものですし、人々は変動する周囲の現実のシステムに追いつくために、あるいはそこから振り落とされないために、自らの内なる場所に据えるべき新たな物語=新たなメタファー・システムを必要とします。その二つのシステム(現実社会のシステムとメタファー・システム)をうまく連結させることによって、言い換えるなら主観世界と客観世界を行き来させ、相互的にアジャストさせることによって、人々は不確かな現実をなんとか受容し、正気を保っていくことができるのです。僕の小説が提供する物語のリアリティーは、そういうアジャストメントの歯車として、たまたまグローバルにうまく機能したのではないか - そんな気がしないでもありません。もちろんこれは、繰り返すようですが、僕の個人的な実感に過ぎません。しかしまったく的外れな意見でもないだろうと考えています。
そう考えれば、日本という社会は、そのような総合的なランドスライド(地滑り)を、欧米社会よりもむしろ早い段階で、ある意味では自明のものとして、自然に柔らかく察知していたのではないかという気もします。僕の小説は欧米よりも早く、日本で - 少なくとも日本の一般読者に - 積極的に受け入れられていたわけですから。それについては、中国や韓国や台湾といった東アジアのお隣の国々についても同じことが言えるかもしれません。日本以外でも、中国や韓国や台湾の読者たちはかなり早い段階から(アメリカやヨーロッパで認められる前から)、僕の作品を積極的に受け入れ、読んできてくれました。
それらの東アジアの国々においては欧米に先だち、社会的ランドスライドが人々のあいだで、既にリアルな意味を持ち始めていたのかもしれません。それも欧米のような「何か事件が起こって」という急激な社会変動てばなく、時間をかけたよりソフトな地滑りとして。つまり経済的に急成長を遂げるアジア地域においては、社会的ランドスライドは突発事件ではなく、この四半世紀ほどに関して言えば、むしろ恒常的な継続状況であったということになるかもしれません。
もちろんそんな風に簡単に断言してしまうにはいささか無理があるでしょうし、そこには他の要因も様々にあるはずです。しかし僕の小説に対するアジア諸国の読者の反応と、欧米諸国の読者の反応のあいだに少なからぬ相違が見受けられるのも、また確かです。そしてそれは「ランドスライド」に対する認識や対応性の相違に帰するところが大きいのではないかと思います。また更に言うなら、日本や東アジア諸国においては、ポストモダンに先行してあるべき「モダン」が、正確な意味では存在しなかったのではないかと。つまり主観世界と客観世界の分離が、欧米社会ほど論理的に明確ではなかったのではないかと。しかしそこまでいくと話が広がりすぎるので、その論議はまた別の機会に譲りたいと思います。