「海外へ出て行く、新しいフロンティア(抜き書き其の六) - 村上春樹」新潮文庫 職業としての小説家 から

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「海外へ出て行く、新しいフロンティア(抜き書き其の六) - 村上春樹新潮文庫 職業としての小説家 から

もうひとつ、あえて僕が言い立てるまでもないのでしょうが、外国では、とくに欧米では、個人というものが何より大きな意味を持ちます。何ごとによらず、誰かに適当にまかせて「じゃあ、あとはよろしくお願いします」ではなかなかうまくいかません。ひとつひとつの段階で自分で責任をとり決断していかなくてはならない。これは手間暇かかることですし、ある程度の語学力も必要になります。もちろん文芸エージェントが基本的なことはやってくれますが、彼らも仕事が忙しいし、正直言ってまだ無名の作家、あまり利益にならない作家のことまでは十分手が回りません。だから自分のことはある程度自分で面倒みなくてはならない。僕も日本ではまずまず名前を知られていたけれど、外国マーケットでは最初はもちろん無名の存在でした。業界の人や一部の読書人を別にすれば、一般のアメリカ人は僕の名前なんか知らなかったし、正確に発音できなかった。「ミュラカミ」とか言われていました。でもそのことで逆に意欲をかきたてられたところはあります。この未開拓のマーケットで、白紙状態からどれだけのことができるのか、とにかく体当たりでやってみようじゃないかと。
さきほども申し上げましたように、好景気に沸く日本に留まっていれば『ノルウェイの森』を書いたベストセラー作家(と自分で言うのもなんですが)として、仕事の依頼は次々にありますし、その気になれば高い収入を得ることもむずかしくありません。でも僕としてはそういう環境を離れ、自分が一介の(ほとんど)無名の作家として新参者として、日本以外のマーケットでどのくらい通用するかを確かめてみたかった。それが僕にとっての個人的なテーマになり目標になりました。そして今にして思えば、そういう目標をいわば旗印として掲げられたのは、僕にとって善きことであったと思います。新しいフロンティアに挑もうという意欲を常に持ち続ける - それは創作に携わる人間にとって重要なことだからです。ひとつのポジション、ひとつの場所(比喩的な意味での場所です)に安住していては、創作意欲の鮮度は減衰し、やがては失われます。僕はちょうど良い時に良い目標、健全な野心を手にすることができたということになるかもしれません。
僕は性格的に、人前に出て何かをするのが得意ではありませんが、外国ではそれなりにインタビューも受けますし、何かの賞をいただけばセレモニーに出てスピーチなんかもします。朗読会も講演みたいなものも、ある程度引き受けます。そんなに数多くではありませんが - 僕は海外でも「あまり人前に出ない作家」という評判が定着しているみたいです - 僕なりにがんばって、自己の枠組みを少しでも押し広げ、外に顔を向けるようにしています。それほどの会話力もありませんが、できるだけ通訳なしに自分の意見を自分の言葉で語るように心がけています。日本ではそういうことは、特別な場合を除いてまずやりません。だから「外国でばかりサービスしている」「ダブル・スタンダードだ」と非難されたりもします。
でも言い訳するのではありませんが、僕が海外でできるだけ人前に出るように努めているのは「日本人作家としての責務」をある程度進んで引き受けなくてはならないという自覚をそるなりに持っているからです。前にも述べましたように、バブル時代に海外で暮らしていたとき、日本人が「顔を持たない」ことでしばしば淋しい、味気ない思いをしました。そういうことがたび重なると、海外で生活する多くの日本人のためにも、また自分自身のためにも、こういう状況を少しでも変えていかなくてはと、自然に考えるようになります。僕はとくに愛国的な人間ではありませんが(むしろコスモポリタン的な傾向が強いと思います)、外国に住んでいると、好むと好まざるとにかかわらず自分が「日本人作家」であることを意識せざるを得ません。まわりの人々はそういう目で僕を捉えますし、僕自身もそういう目で自分を見るようになります。そしてまた「同胞」という意識も知らず知らずに生まれます。思えば不思議なものです。日本という土壌から、その固い枠組みから逃れたくて、いわば「国外流出者[エクスペイトリエスト]」として外国にやってきたのに、その結果、元ある土壌との関係性に戻っていかざろう得ないわけですから。
誤解されると困るのですが、土壌そのものに戻るということではありません。あくまでその土壌との「関係性」に戻るということです。そこには大きな違いがあります。外国暮らしから日本に戻ってきて、一種の揺り戻しというか、妙に愛国的(ある場合には国粋的)になる人を時折見かけますが、僕の場合はそういうのではありません。自分が日本人作家であることの意味について、そのアイデンティティーの在処[ありか]について、より深く考えるようになったというだけです。

僕の作品は今のところ五十を超える言語に訳されています。これはずいぶん大きな達成であると自負しています。それはとりもなおさず、いろんな文化のいろんな座標軸の上で作品が評価されているということですから。僕は一人の作家としてそのことを嬉しく思うし、また誇りにも感じています。でも「だから僕のやってきたことは正しかったんだ」という風には考えませんし、そんなことを口にするつもりもありません。それはそれ、これはこれです。僕はいまだに発展の途上にある作家だし、僕にとっての余地というか、「伸びしろ」はまだ(ほとんど)無限に残されていると思っているからです。
それでは、どこにそのような余地があるとおまえは思うのか?
その余地は自分自身の中にあると僕は思っています。まず日本で僕は作家としての地歩を築き、それから海外へ目を向け、読者の層を広げました。そしてたぶんこの先、僕自身の内部に降りていって、そこをより深く遠くまで探っていくことになるだろうと思います。それが僕にとっての新しい未知の大地となり、おそらくは最後のフロンティアとなることでしょう。
そのフロンティアがうまく有効にきり拓けるかどうか、それは僕にもわかりません。しかし繰り返すようですが、何かしらの旗印を目標として掲げられるというのは素晴らしいことです。たとえ何歳になろうが、たとえどんなところにいようが。