1/2「「バザール」の雰囲気のある町-板橋 - 川本三郎」ちくま文庫 私の東京町歩き から

f:id:nprtheeconomistworld:20200104083619j:plain




春三月、板橋区の西高島平にある板橋区立美術館に「大正期の版画展」を見に行った。ここは出来てからもう十年近くになるがよく大正期の美術展をやるので大正時代に興味を持っている人間としては有難いところだ。
美術館の帰り、思いたって、旧中仙道の板橋宿のあたりを散歩してみることにした。ふだんの散歩の場所は隅田川、荒川周辺が多く、板橋区はこれまでほとんど縁がないからである。
幸いもう暖かく町歩きにはうってつけの日だった。都営地下鉄で(いつも思うのだが都営地下鉄はどうしてあんなに料金が高いんだろう)西高島平から都心へ戻る感じで板橋本町まで行き、そこから旧中仙道に入ることにした。
板橋本町の駅を出て驚いた。ちょうど新中仙道と環七のぶつかる交差点で車の量がすさまじい。これは散歩に向かないところに来てしまったかなと一瞬不安になったが、新中仙道とほぼ平行して走る旧中仙道に入ってみてほっとした。こちらは道が狭いこともあって車の量が少なく、ゆっくりと散歩が楽しめる。小さな、しかし、活気がある商店街がずっと旧道沿いに伸びている。
中仙道はいうまでもなく江戸の五街道のひとつ。板橋はその宿場町である。新宿、品川、千住とともに四宿のひとつとしてにぎわった。東海道に比べると洪水も少なく、車馬も少なかったため皇女和宮はじめ徳川家に降嫁する宮女の行列が通ったという。
環七から入ってすぐのところは、「仲宿商店街」。「仲宿」と名前に昔の名残りがある程度で、商店街そのものはほとんど街道宿のおもかげはない。古い建物も残っていない。昔を思わせる商店があるわけでもない。東京のどこにでもある小さな個人商店が軒を並べる商店街だ。
豆腐屋惣菜屋、せんべい屋、カメラ屋、本屋.....ふとん屋の店先で近所の老人たちが日だまりの椅子に坐ってのんびりとおしゃべりしている。そばの掲示板には「浅香光代特別公演 一本刀土俵入り 板橋区立文化会館」のポスターが張ってある。
平日の昼下がりの商店街は人の出は多いがどこかゆったりしている。交通規制されているのかほとんど車は入ってこない。だから老人たちの姿がよく目につく。江東区墨田区と同じでここでも東南アジアの青年たちが多い。二人、三人で楽しげに歩いている。自転車に乗って買物を楽しんでいる。板橋区は区として積極的に区民とアジアの青年たちの交流を手がけていると聞いたが、確かに彼らは商店街によく溶け込んで見える。都心の先端的な町より、こういう生活感のある町のほうが彼らも落着くのだろう。
風呂屋、寿司屋、うなぎ屋、八百屋.....間口二間といった小さな個人商店がずっと並んでいる。この商店街では昔懐しい街頭放送をやっている。近所の商店の宣伝である。若い女性の声が洋服店の特売のお知らせをしている。五所平之助監督の『煙突の見える場所』(一九五三年)のなかで高峰秀子が街頭放送の“ウグイス嬢”(懐しい言葉ですね)だったのを思い出す。最近は街頭放送も「騒音公害」で批判されているのがこういう小さな商店街で大売り出しのPRをしている女性の声に「騒音だ!」と目クジラをたてることもないように思うのだが。
商店街の左側に“名所旧蹟”の「縁切りエノキ」というのがあった。ちょっとした小さな神社という感じである。縁結びの神と逆でこの「縁切りエノキ」は“あんな女(男)とは別れたい!”と思っている人間の願いをかなえてくれるのだという。そのために江戸時代、宮女が将軍家へ御降嫁の折りは縁起が悪いと、行列はこのエノキ(実際はツキの木とか)を避けて裏街道に入ったり、エノキをコモでおおって隠したりしたそうだ。神様なので手を合わせようとしたが、「縁切りの神」ではどうもやはり具合がよくない。やめにしておいた。もっともあとで聞くと「縁切り」といっても自分のことではなく「夫があの女と別れますように」という相手とのことなのだそうだ。それなら気持はわかる。
この「縁切りエノキ」を過ぎて少し坂を下ると石神井川にかかる板橋がかかっている。板橋の地名はこの橋からとられている。橋のたもとには「日本橋から約十キロ」の案内板がたっている。このあたりが板橋宿の中心だったらしい。
石神井川はもうほとんど川の面影はない。大きなドブ川である。夏になるとカが発生して困ると昼飯を食べに入ったうなぎ屋のおかみさんがいっていた。橋のたもとにある銭湯の名前は「水神湯」。昔はそれでも清流だったのかもしれない。
うなぎ屋でビールを飲んでいたら客に一人いかにも“近所の隠居”という感じの老人がいて佃煮を肴に日本酒をかたむけていた。
仲宿商店街」はやがて王子新道と直角にぶつかる。それを越えるとこんどは、「不動通り商店街」である。旧中仙道はこんなふうに小さな商店街が途切れずに続いている。「不動通り」という名前は近くに「出世不動」という不動様があるためらしい。
このあたりは昔は遊女屋が並んでいたという。『東京風土記』(教養文庫、一九六六年)という本にはこんな記述がある。「板橋宿には、宝暦十四年(一七六四年)の記録では、飯盛女百五十人と見えているが、相当に宿屋があったものと思われる。時代が過ぎて大正の末期ごろには、旅館のほかに十二軒の遊女屋があったが、都荘はその遊女屋の一つで、戦争中は軍に徴用され、戦後は都病院となり、現在はアパートとして使用されている。その他の遊女屋だった建物は数軒残っているが、商店として改装されてしまった」
この遊女屋の都荘は不動通りの、板橋駅に向かって右側にあったという。それで商店街の何人かの人に「都荘のあったところは?」と聞いてみたのだがみんな「わからない」という答え。本当にもう忘れられてしまっているのかそれとも外の人間に遊女屋のことなど聞かれるのが嫌なのか。
仕方なく商店街に入り込む路地をひとつひとつ歩いてみた。その路地裏に一軒、周囲の新しい建物とはまったく趣きを異にする黒々とした木造二階建ての建物があった。二階には最近では珍しい物干し台がついている。これが都荘だった建物かもしれない。「不動通り商店街」はやがて新中仙道とぶつかる。車がすさまじい勢いで走っている。旧中仙道からここへ来ると十九世紀から一気に二十世紀に来たような感じになる。交差点のところには東京の大きな自動車道路の沿道にはどこでも見られるファミリーレストランがある。
新中仙道は広く、車がひっきりなしに走っているので歩道橋で渡らざるを得ない。歩道橋の上から町を眺める。新中仙道から少し入ったところに都立北園高校が見える。ドイツ文学者の種村季弘氏、映画評論家の松田政男氏がここの出身である。たしか種村氏が一年先輩の筈である。松田政男氏は当時、政治少年で、さかんにデモやオルグをしていたという。一九五〇年代、まだ「戦後」という混乱の時代のことである。
歩道橋を降りてまた旧中仙道に入る。こんどは赤羽線板橋駅に向かう商店街になる。ここは歩道がアーケードになっている。戦前は、この板橋駅前商店街のほうが池袋よりもはるかに大きかったという。いままで歩いてきた「仲宿商店街」や「不動通り商店街」に比べるとずっと規模は大きい。そのぶん散歩には向いていない。