(巻二十四)清貧と云ふには遠し目刺焼く(池田雅かず)

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1月4日土曜日

寒い!寝不足!

願うことただよき眠り宝船(富安風生)

で、その延長として

麦秋のどこまで眠りどこより死(柳生正名)

ですから、願はくは、白いきれいなシーツの上で温かい毛布を掛けていただいて、寝ているのか死んでいるのか分からないようにおさらばするというのが望みです。ただそれだけです。

外出せずに昼寝した。夢に邪魔されず睡眠を満喫しましたが、二時間弱で目覚めてしまい残念でした。意識が無い状態が続いてくれるのがありがたい。
呆けたいのならこう言う作業や語学は止めた方がよいのだろう。

外出や一撮がないときは猫にします。

本

《 その後九月一日に熱海に居を移した荷風散人は、翌昭和二十一年(一九四六)一月一日の『日乗』に、「今日まで余の生計は、会社の配当金にて安全なりしが今年よりは売文にて餬口の道を求めねばならぬやうになれるなり、去秋以来収入なきにあらねどそは皆戦争中徒然のあまりに筆とりし草稿、幸に焼けざりしをウ[難漢字]りしがためなり、七十近くなりし今日より以後余は果して文明を編輯せし頃の如く筆持つことを得るや否や、六十前後に死せざりしは此上もなき不幸なりき、老朽餓死の行末思へば身の毛もよだつばかりなり」と述懐している。》

と二十一年元旦に書いています。
今日読んだ

葛飾土産(冒頭) - 永井荷風岩波文庫 荷風随筆集(上) から

は昭和廿二年二月の作品では落ち着きを取り戻しつつあるようです。

《菅野[すがの]に移り住んでわたくしは早くも二度目の春に逢おうとしている。わたくしは今心待ちに梅の蕾が綻びるのを待っているのだ。
去年の春、初めて人家の庭、また農家の垣に梅花が咲いているのを見て喜んだのは、わたくしの身に取っては全く予想の外にあったが故である。戦災の後、東京からさして遠くもない市川の町の附近に、むかしの向嶋を思出させるような好風景の残っていたのを知ったのは、全く思い掛けない仕合せであった。》