「谷崎源氏の思い出 - ドナルド・キーン」朝日文庫 日本人の質問 から

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「谷崎源氏の思い出 - ドナルド・キーン朝日文庫 日本人の質問 から

ともかく、谷崎先生は有名な「客嫌い」ぶりを私には見せなかったので、自分の罪は許されたと解釈してもよいと思っている。そして、新々訳となった時、私の気に入らなかったか敬語が完全に消えたので、或いは谷崎先生自身が、戦前の状況に応じて特殊な調子で書かなければならなかったのかとも考えられる。
新々訳のことでは私自身のもう一つの失敗を思い出す。昭和三十九年に、谷崎先生の三回目の現代語訳が発行される運びになった時、中央公論社の依頼で取次店の方々に谷崎文学について短い講演をするように言われた。講演の目的は、言うまでもなく、新々訳の宣伝であったが、私はそれをよく理解せず、谷崎文学のすばらしさを語るだけで好いだろうと思った。講演を無事に終えた時、二、三の質問があった。誰かが、「谷崎先生は源氏物語を新しく訳されましたが、どう思いますか」というような質問をしたが、私は「誠に残念に思います。戦前の現代語訳に検閲等の悪い条件がからまっていましたので、新しい現代語訳に直されたことは当然ですが、三回も訳す必要はなかったでしょう。それよりも同じ時間を利用して創作をお書きになったらよかったと思います」と正直に答えた。中央公論社の販売部の人たちは私の発言を喜ばなかったようである。
私は実に馬鹿なことを言ったと思うが、谷崎先生が、『源氏物語』の翻訳をやらなかったら、どんな小説を書かれたか、と今でも考えることがある。死んだ児の年を数えるようなものだし、むしろ逆のことを考えた方が有意義であるかも知れない。つまり、谷崎文学が『源氏物語』の三回の現代語訳によってどのように養われ、成長したかという観点から谷崎文学全体を見ると、もう「死んだ児」の話ではなくなり、幸運な星の下で生まれ、みごとに育った児の話になる。
無論、『即興詩人』という翻訳が鴎外の傑作であるように、谷崎源氏は谷崎文学の最高峰たと考えられないこともない。谷崎文学を余り認めようとしない読者でも谷崎源氏の完璧な日本語に魅せられれることがあろう。しかし、小説家の創造力を重視した谷崎先生の場合、文体のすばらしさは傑作の要素の一つに過ぎない。谷崎源氏の文体は谷崎潤一郎の文体に違いないが、物語そのものは紫式部が創ったものなのだから、谷崎文学の最高峰だと言い切ってしまったら、谷崎先生に対してまことに不親切なことになる。
それなら、一番の傑作は何かと言うと、多くの人は『細雪[ささめゆき]』と答えるだろう。『細雪』は『源氏物語』に負うところが多く、直接の影響を現すようなくだりもかなりあることは評論家の常識になっている。実は、私は影響を探り出すことには余り興味がないが、一つだけ言わせて頂きたい。『源氏物語』という長い小説を訳さなかったならば、谷崎先生は『細雪』のような大規模な作品を書く根気を養えなかったのではないかと思う。数回も小説を未完のまま放棄したり、『武州公秘話』の続篇を到頭書かなかった谷崎先生は『源氏物語』の現代語訳を頼まれた時、「大いに食指が動いた」が「人一倍遅筆な私が、日に四、五枚の進行が精々である私が、あの大部なものを訳し上げるのに何年かかるか」ということで躊躇なさったことは当然であろう。谷崎源氏という壮大な仕事を完成し、発表した直後に『細雪』に着手したのは偶然ではなかろう。「遅筆」でありながら、『源氏物語』を思わせるような大作が書けるという自信がついたようである。
ところが、周知の通り、谷崎先生は出来上がった全訳をそのまま発表できなかった。光源氏藤壺との関係が不敬罪にあたるとされ、省略されてしまった。戦後企てられた二回目の谷崎源氏の動機は完全な訳を発表すると同時に、戦前の軍隊語を思い出させる「であります」体を「です」体にすることであったようであるが、新訳の仕事は旧訳に劣らないほど時間がかかった。昭和二十九年に訳了した十二巻の新訳については「旧訳に比べればあれでもよほど現代人に分りやすいように、丁寧すぎる敬語等を省いて簡潔を期したのである」と昭和三十九年に訳了した新々訳の序に述べている。新々訳の動機は、旧訳も新訳も旧仮名でかかれていたために、「若い読者層から疎[うと]んぜられている」と出版社から聞き、「一人でも多くの人に谷崎源氏を読んでもらう」ためには、多年の節をまげることも止むを得ないとされたからのようである。
新々訳は既に谷崎源氏の決定版となったので、「新々」と言わなくなった。私は三つの翻訳を少し比較してみたのだが、それぞれに違った魅力はあるが、やはり「新々訳」が最高であるという他はない。『源氏物語』についての私の思い出の中に永遠に名誉ある地位を占め続けるだろう。