「美しければすべてよし - 山本夏彦」新潮文庫 「夏彦の写真コラム」傑作選 から

f:id:nprtheeconomistworld:20200107082330j:plain


f:id:nprtheeconomistworld:20200107082355j:plain


「美しければすべてよし - 山本夏彦新潮文庫 「夏彦の写真コラム」傑作選 から

昭和三十四年四月三十日夕、永井荷風は常のごとく市川の大衆食堂で好物のカツ丼を食べ、帰ってその晩死んだ。
どういうわけか今その死体の写真が発表された。着のみ着のままうつぶせになって顔をじかに畳につけ、苦しかったのだろう、ズボンをぬごうと試みて半ばずらしたところでこと切れている。
荷風はウソつきでケチで助平でつめたくて、自分のことを棚にあげ舌鋒するどく他人を難じるときは常に自分でも信じていない儒教を借りてつめよった。
昭和二年改造社は一冊一円の「現代日本文学全集」の大広告をした。いわゆる円本である。当然「荷風集」ははいっている。無断でなぜいれた、自分はゆるしていない、本は大量生産して大量販売していいものではないと延々三回にわたって新聞紙上で改造社のやり口を非難して、荷風集は出させないと大見得を切った。
ところが全集は大成功で三十なん万部も出た。印税一割とすれば三万なん千円の収入になる。当時の三万円はその利子だけで一生くらせる大金だから、今の何億に当るか分らない。荷風は手のうら返して改造社の円本に参加して、その金でカフェライオン、カフェタイガーなどの客になって連日女あさりをした。
一日銀座街頭で辻潤に袖をとらえられ、今後はきれいな口をきくなと言われたという。辻潤は今は忘れられたがあり余る才能を発揮できぬまま死んだ文士である。辻まことの父である。全集八巻がある。
荷風の「花火」(大正七年)は、戦前は誰も認めなかった十枚前後の小文で、戦後にわかにもてはやされるようになった。明治の末荷風は市ヶ谷に住んでいたころ大逆事件の囚人護送車をしばしば見た。ゾラなら立って弾劾しただろうに、自分は座して一語も発しなかった。以来荷風は恥じて縞の着物に角帯しめ腰に煙草入をさす戯作者になったと書いたのを、左がかった文士が奇貨として利用したのである。
荷風社会主義に目ざめた人のように言いふらすとは笑止である。荷風は関係のあった女給が、手を切ったのにゆすりにきたのを資本主義の権化と書いた人である。資本主義の何たるかを知らぬひとである。
荷風出世作の一つに「ふらんす物語」がある。荷風はフランスに行ったが、足跡を印したのみで影響はうけなかった。その証拠にセーヌ河とある個所のすべてを隅田川と改めてみるがいい。何の故障もないとむかし北原武夫が論じたことがある。
好んで独身を貫いた八十翁[おう]にとって、この最期は望むところだったのである。ぽっくり寺詣りする老人が多い昨今、うらやむべきことであっても気の毒がるには及ばぬことである。
荷風の人物は彼が好んで援用した儒教的モラルからみれば低劣と言うよりほかない。それなのに荷風は今も読まれこれからも読まれ、日本語があるかぎり読まれるのは、ひとえにその文章のせいである。その文章は「美」である。荷風は日本語を駆使して美しい文章を書いた人の最後のひとりである。おお、私は彼を少年のころから今に至るまで読んで、恍惚としないことがない。些々[ささ]たるウソのごときケチのごとき、美しければすべては許されるのである。