1/2「犠牲と変身-ストリップ・ティーズの哲学 - 澁澤龍彦」中公文庫 少女コレクション序説

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1/2「犠牲と変身-ストリップ・ティーズの哲学 - 澁澤龍彦」中公文庫 少女コレクション序説

私は前に、編んどれ・マルローの名著『ゴヤ論』を参考にしながら、プラド美術館の名高いゴヤの「裸体のマハ」の図が示している、いわば脱衣のエロティシズムとでもいったものについて私見を述べたことがある。
マルローの意見によれば「裸体のマハ」は「着衣のマハ」と切っても切れない関係にあるものであって、ヴェネツィア派の裸婦などとはまったく性質を異にしている。つまり、ヴェネツィア派の裸婦が最初から衣服をはねつけているのに対して、この裸体のマハは、いままで着ていた衣裳をかなぐり棄てたばかりの状態なのであり、だからこそ、その肉体がひときわ挑発的にエロティックなのだ、というのである。
私は、このマルローの卓抜な意見に、目のさめるような思いをするとともに、「着衣のマハ」と「裸体のマハ」との二つ並べて提示したゴヤの非凡な着想に、あらためて讃嘆の念を禁じ得なかったものである。と同時に、このエロティシズムにおける着衣と脱衣の弁証法こそ、ゴヤの芸術を解く一つの重要な鍵になるものではあるまいか、と考えた。というのは、脱衣のエロティシズムということから、私はただちにジョルジュ・バタイユの言葉、性愛の行為と犠牲とを比較した言葉を思い出していたからである。
バタイユによれば、衣服を剥ぎとるということは、二つの個体のあいだの交流のために道をひらく、エロティシズムの遂行における「決定的な行動」なのだ。すなわち、「裸にするということは、それが十全の意味をもつ文明の見地から眺めるならば、殺人の代用物とはいわぬまでも、少なくとも危険性の少ない殺人と等価物なのである。古代においては、エロティシズムの基礎となる剥奪(あるいは破壊)という行為は、かなり目立っていたので、性愛の行為との類似は容易に証明することができるほどであった。」(『エロティシズム』)
もちろん、エロティシズムの遂行においては、女性パートナーが犠牲者の役割を演じ、男性パートナーが犠牲執行者の役割を演ずるわけである。女性パートナーを裸体にすることによって、正常な状態における閉ざされた人間関係の秩序が乱れ、男と女のあいだに交流の状態が生じることになる。これがエロティックな欲望の状態である。
ゴヤの裸体のマハは、べつに男性パートナーによって衣服を剥奪されたというわけではなく、おそらく自分で脱衣したものであろう。その点では、ストリップ・ティーズの演技者の場合と同様である。しかし男性の目にさらされながら脱衣するということは、エロティシズムの文脈においては、衣服を剥奪されることと本質的にほとんど変わらないだろう。この場合、男性の視線は明らかにサディスティックであり、私はそこに、ゴヤの芸術の重要な要素とつながるものを見たと思ったのである。
私がここでいいたいのは、しかしゴヤの芸術に関してではなく、バタイユの文章にあるような、性愛の行為と犠牲との類似ということに関してである。ゴヤの問題を離れて、もっぱらストリップ・ティーズの問題に焦点をしぼろう。
ストリップの演技者が自分で衣服を脱ぐ場合も、あるいは他者に脱がされる場合も、本質的には変わりがないと私は書いたが、これについてはおもしろい例がある。アラン・ロブ=グリエの小説『快楽の館』のなかに、香港のいかがわしい社交クラブで演じられるストリップ・ティーズの場面が出てくるが、このストリップの演技者は日本人の少女で、彼女は犬に衣服を剥ぎとられるのである。その一部を次に引用してみよう。
「そのために特別の訓練を受けた犬が、囚われね娘を完全に裸にしなければならないのだ。侍女が、綱を握っていない方の手で指示すると、犬は襞のあるスカートに狙いをさだめ、その牙で衣服を引き裂き、最後の絹の三角形しか残らなくなるまで、衣服をずたずたにして剥ぎとってしまうわけだが、しかし肌は傷つけない。」
「プロジェクターのライトは、束をなして犬の頭に集中し、犬が仕事にとりかかっている部分 - 腰や肩や胸の部分 - をとくに明るく照らし出す。侍女は綱をひっぱるようにして犬を操り、ストリップのとりわけ装飾的な段階 - つまり新しい表面が視線にさらされたり、衣服の布地がうまく偶然に引き裂かれたりするような - に達したと判断するたびごとに、編み革の綱をひっぱって、鞭の一撃のような鋭い声で、短く『こっち』と叫ぶ。すると、犬は残念そうに、後ろに引き下がって暗闇のなかに没する。そのあいだ、囚われの娘に当てられていたライトは大きく広がり、彼女はこのとき観客に向けていた身体の側を、顔から背中まで、その全体において鑑賞に供するというわけだ。」
「視線の文学」といわれているように、ロブ=グリエの描写は即物的で正確であり、私たちはあたかもストリップの観客のゆうに、サディスティックな眼ざしとともに、少女の衣服剥奪のシーンに立ち会わされることになる。少女はこの場合、明らかに犠牲者の役割を演じているが、一方犠牲執行者の役割を演ずるのは、特定の男性パートナーではなく、人間でさえないのである。つまり犬なのだ。この犬は、むしろ不特定多数の男性の観客を代表している。、非人称の存在だと考えた方がよいだろう。ストリップ・ティーズにおいては、たとえ演技する女がひとりで脱衣するとしても、男性の観客を代表するこの非人称の存在に、じつは衣服を剥奪されているという場合が多いのである。というよりも、演技する女はひとりで犠牲者と犠牲執行者の役割をかねているのだ、というべきかもしれない。