2/2「犠牲と変身-ストリップ・ティーズの哲学 - 澁澤龍彦」中公文庫 少女コレクション序説

f:id:nprtheeconomistworld:20200108083632j:plain


2/2「犠牲と変身-ストリップ・ティーズの哲学 - 澁澤龍彦」中公文庫 少女コレクション序説

一九三四年生まれだから当年三十九歳、前衛劇や映画にも出演して批評家の絶讚を博している、インテリ・ストリッパーとして名高いフランスのリタ・ルノワールが、次のように述べているのは興味ぶかい。
「ストリップとは、何よりもまず一つの儀式であり、観念によって肉の交流を実現することを目的とした。一つの儀式なのです。脱衣する女は、犠牲執行者であるとともに犠牲者であり、誰の手にも委ねられていると同時に、また誰も手を触れることのできない存在なのです。」(『ストリップ・ティーズの歴史と社会学』)
さすがにインテリ・ストリッパーのことだけあって、リタ・ルノワールの意見は、期せずして私の意見と一致しているようだ。たぶん、彼女はバタイユなども読んでいるにちがいない。
ただ、ストリップが一種の儀式であり、ストリップの演技において性愛と犠牲とのアナロジーが実現されるという、彼女の意見が真実であるとしても、両者のあいだに横たわる重大な違いは、これを正しく認めておくべきだろうと思う。それは何かといえば、ストリップにおいては、性的欲望も犠牲も最後まで貫徹されず、中途で挫折するということである。観念についに肉の交流を実現しないのである。今日の日本各地に見られるような、いわゆる「特出し」というストリップが邪道であって、本来のストリップが、完全な裸体を見せるかと思われる一瞬、ぱっと舞台のライトを消して、演技者の姿を闇のなかに没せしめてしまうといったような形式のものであることは、わざわざお断りするまでもあるまい。正統的なストリップは、そうした意味で、永遠に目的に到達し得ないエロティシズムの絶望的な性格を、忠実になぞっているのである。
ストリップ・ティーズの「ティーズ」とは、「悩ます、じらす」といったほどの意味であるが、たしかに、ある面から見れば、ストリップは欲求不満の状態をつくり出す見世物である、といえるかもしれない。もっとも、そういう面から眺めれば、映画やヌード写真をふくめた、あらゆる視覚的なエロティシズムの媒体が、大衆のフラストレーションの根拠であるといえなくもなかろう。
この人間の性的刺激を伝達する感覚のなかでも、圧倒的に優勢な地位を占める視覚の働きというものが、ストリップの魅力を成立せしめる基盤であるということに関しては、誰しも疑う余地があるまい。
「ストリップ劇場が急増し、性的抑圧も抑圧からの解放も、ともに商品化された」とロー・デュカが述べている、「ストリップ・ティーズは、いわば窃視症にかかった現代社会の象徴であって、漠然たる刹那的刺激と、単なる瞼の運動にまで退化した視線とをもって、実際の行為の代行をしようとするものである」(『エロティシズムの歴史』)
現代社会の風俗やマス・コミュニケーションが、印刷術や写真術の発達に伴って、ますます視覚の働き、イメージの必要性を強く意識しはじめてきたことは、すでに多くの論者によって指摘されているところである。見る欲望、目のエロティックは、すでに現代社会で、ある程度まで公認された欲望とさえなっている。ストリップは、こうした窃視症的な現代社会に咲いた、不毛な徒花のようなものだといえるかもしれない。
私は前に、エロティシズムにおける着衣と脱衣の弁証法ということを述べたが、この逆説的な関係は、ストリップにおける性的抑圧と抑圧からの解放についても、同じように成立するはずのものだと思う。いかに劇場内におけるストリップの露出度がエスカレートしたとしても、それが性的抑圧からの解放を少しも意味しないことは、ちょうど脱衣のエロティシズムが、着衣のそれによって緊密に保証されていることにひとしいのである。最初から衣服をつけていないヴェネッィア派のヴィーナスよりも、衣服を脱いだばかりの「裸体のマハ」の方がエロティックなのである。同様の理由によって、ヌーディスト・キャンプでは、おそらくストリップ劇場は興行として成立しないにちがいない。裸体が正常のものではなく、あくまで変則的なものである限りにおいて、ストリップの魅力は保証されているのだ。とするば、ストリップの露出度の高まることが、性的抑圧からの解放などと直接的に何の関係もないことは明瞭であろう。むしろ露出度の高まりは、ストリップの危機を招くものにほかなるまい。
衣服をつけている女は、まさしく日常的世界の女であるが、男の視線にさらされながら、音楽の伴奏に合わせて、悩ましげな姿態を繰り返しつつ、一枚一枚、少しずつ衣服を脱いでゆく女は、すでに個人としての女ではなく、単なる肉体としての女に移り変わろうとしているのである。これが前に述べた、日常的な状態からエロティックな欲望の状態への移行であり、女を眺めている観客の立場からすれば、これが女を単なる肉体として存在させようとする、一つのザディスティックな試みということになるのである。このザディスティックな視線の欲望は少なくとも意識的にストリップを楽しもうとする、男の観客ひとりひとりの心の奥に、ほぼ確実に存在するものではないかと私には思われる。
だから、観客の欲望を一身に集めた、この女の肉体の熱っぽいメタモルフォーシス(変身)の時間を適度に長びかせるのが、エロティックなパントマイムを演ずるストリッパーの技術なのであって、その変身の時間は、短すぎてもいけないし、また長すぎてもいけないのだ。昆虫の変身のように、この女の変身もたえず神秘な期待をいだかせなければならない。期待が先へ先へと延ばされるにつれて、神秘も肉体の奥へ奥へと後退する。しかも、期待は期待のままで終わらせなければならないし、神秘は神秘のままで、余韻を残して中断させなければならないのである。それには、完全な裸体を惜しげもなく見せることは慎しむべきだろう。「最後の絹の三角形」が、ライトの消えた闇のなかで、観客の瞼の裏に残像として焼きつくようでなければならないのだ。
窃視症にかかった現代社会の徒花とは、ともすると、この闇に浮かぶ神秘な三角形の残像のことかもしれないのである。
最後に私が指摘しておきたいと思うのは、ストリップを演技する女が、あらゆる舞台芸術の出演者と異って、見えない厚い壁に囲まれた、濃密な孤独の空間に押しこめられているということだ。ミュージック・ホールの舞台で揃って脚を上げるライン・ダンスの踊り子とは、その点で、ストリッパーは完全に対称的なのである。
スポット・ライトに照らされた舞台の上のストリッパーは、むしろ繭のなかの昆虫に似ているような気がする。孤独のなかで、苦しげに、歓ばしげに、彼女は変身しようと身をもがくのである。それは言葉を変えれば、犠牲者と犠牲執行者とに分裂した、彼女自身の存在の二重性のせめぎ合いということかもしれない。