「私の「膝栗毛」 - 遠藤周作」集英社文庫 お茶を飲みながら から

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「私の「膝栗毛」 - 遠藤周作集英社文庫 お茶を飲みながら から

膝栗毛をはじめて読んだのは中学の三年生の頃である。岩波文庫の黄帯を最初に買ったのがこの本であった。
愚かな中学生はこの本にいたく熱中し、自分でも同じような滑稽道中を試みようと考えはじめた。たしかその年の夏休み、同じクラスの同じように成績もよくない、それゆえに気の合った仲間一人を誘って弥次郎兵衛、喜多八とは逆に西国街道を京に向うことにした。
当時の西国街道は今とちがってまだ道も細く、田畑も多く藁ぶきの農家もあまたあり、いかにも江戸時代の旅を真似るにはふさわしかったが、八月の暑さの上に、弥次、喜多のように面白いことの一つに出会う筈はなく、同行の仲間は足くたびれて泣きべそをかき、途中で戻ると言いはじめ、結局、京都にたどりつく前に引っかえしてしまった。この経験で愚鈍な中学生も滑稽[ユーモア]ということは現実にあるのではなく、創りだすものだと身にしみてわかったのである。
その後、膝栗毛を読むことはなかったが、戦争が烈[はげ]しくなった学生時代、ふたたび古本屋でこれを見つけ、むさぼるように読んだ。毎日が工場で戦闘機の部品をつくらされ、夜は防空壕のなかにかくれ、飢えと疲れとのなかで、召集令がいつ来るかわからぬ時、他の級友たちは万葉集だの西田哲学の本を開いていたが、私には暗い灯の下でこの膝栗毛を開くほうがよほど良かった。
その時、私が膝栗毛から吸いあげようとしていたのは - あとから考えてみると - 自分にも自分の周りにもまったく失われてしまった世界だったのかもしれない。弥次、喜多のような人物はもはや日本人のなかには存在しなかったし、世間は日本人を別な姿として我々に強いていたからである。今やっている戦争の是非などはわからなかったが、私は自分の周りの日本人がたまらなく嫌になっていた。そんな時、膝栗毛に出てくる人物たちはたまらなく魅力的だったのである。
後年、なくなられた渡辺一夫先生と何かの雑談の折り、自分は戦争中、日本人を信じたいために膝栗毛を読みました、と伺い、我が意を得たように嬉しくなったのを憶[おぼ]えている。
遠い国に出かけた時、ふと思いたって文庫本の膝栗毛を鞄のなかに放りこんでいったことがある。異国の旅館でおのれの旅の寂しさにこの道中記をあわて読むようになった。
一九がどういう動機でこの膝栗毛を書いたのか私は詳しくは知らない。ある学者の本をみると、駿河出身の一九は三馬や種彦のような生粋の江戸ッ子ではないため、彼らの感覚にとても及ぶべくもないのを悟り、そこで田舎の弥次、喜多を江戸の外を歩かせ、田舎者からも笑われる人物に仕たてようと考えたと言う。そうすれば従来の「江戸での失敗」を扱った洒落本や小咄とちがい、地方の読者にも受けると計算したそうである。
だが、そういう動機は別に国文学者ではない私にはどうでもよい。私が遠い国に出かけた時、この膝栗毛をわびしい旅館で読むようになったのはそれと別のことである。
弥次さんも喜多さんも一九と同様、生粋の江戸ッ子ではない。序編をみると弥次さんは駿河の金持の息子に生れたくせに、親ゆずりの財産を蕩尽[とうじん]し、当時、旅役者に抱えられていた喜多さん(鼻之介)にうちこんで、二人で江戸に逃げたという男である。地方で何不自由ない一生を送れるのにその土地に一生を送れなかったというのは弥次さんがそこでいきられなかったことを示している。弥次さんが江戸に来たのはそこで一旗あげるためではない。功名をとげるためでもない。やむを得ず江戸に「逃げた」と書いてある。喜多さんもまた役者の抱え者となるような浮き草の男である。二人はその点、共に根のない人間なのだ。
江戸に来ても二人がそこで根をおろせなかったことも、序編にはっきり書いてある。弥次さんは結婚に失敗し、喜多さんは奉公した商家でも勤まらない。弥次さんは江戸育ちの女房にたえずコンプレックスを感じたことがはっきりわかる。喜多さんは律儀な商人の世界に住めなかったのだ。その二人の心情は「たがいにつまらぬ身の上にあきはて」旅をしようとしたという言葉にはっきりあらわれている。
地方にも生きられず、江戸にも住みえなかった二人。どこへ行っても根のない人間である弥次さんと喜多さん。それだからこそ彼等は旅をしなければならなかったのである。東海道だけでなく、寂しい木曾街道も歩かねばならなかったのである。そしてそのくせ、この旅の間、彼等を引きとめる場所は何処にもない。彼等はやっぱりおそらく帰っても根のおりない江戸に戻らねばならなかったであろう。
私は中学生の時、戦争中、それぞれ違った形で膝栗毛を読んだが、今はそのような形でこの本を愛読している。そういう風に読むとこの本は非常に寂しい本である。特に東海道よりも続膝栗毛中の木曾街道は寂しい本である。
「みちみた、さまざまのさいなんに会ひて、一文なしとなりたることあれども.....おのづから元気もなく弱りはてゝ」もこの二人が歩いている姿が眼に浮かぶような気がする。二人は寂しいから洒落のめすのである。寂しいから江戸ッ子だと威張るのである、寂しいから彼等はぐうたらに憧れるのである。彼等の心にはどこかお人よしの部分と小狡い部分とそして何かにたいする劣等感がある。その劣等感とはそれぞれの国、それぞれの宿場に定住する人への根なし草の人間の劣等感なのだ。
異郷に旅するたびに私には、この弥次さんと喜多さんの心情が身につまされてわかる。旅をするとはそこに定住できね寂しさをいつもつきまとわせるものだし、極端に言えば、根なし草の哀れさを噛みしめさせるものである。日本人でありながら現代日本に心の底から根をおろせず、といって外国人でもないというものには、この弥次さんと喜多さんとが雨のなかをトボトボと木曾街道を歩く姿が、何かわが身を思いださせるにちがいない。地方でも生きられず、江戸でもつまらぬ身だとしか自分を感じなかった二人は、大袈裟に言えば我々自身なのかもしれぬ。
彼等が洒落のめしたり、威張ったり、ぐうたらであればあるほど、その旅だちの朝、雀がチュチュとなき、烏がカアカアとなき、そして馬方の唄のきこえる街道の描写は我々に二人の人生の寂しさを感じさせる。この本をほかの戯作者の風俗小説をこえて我々が愛読してしまうのは、おそらくこういった二人と旅の寂しさのためだろう。