「近代日本の作家の生活-2 - 伊藤整」」岩波文庫 近代日本人の発想の諸形式 から

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「近代日本の作家の生活-2 - 伊藤整」」岩波文庫 近代日本人の発想の諸形式 から



戯作系の文士たちは、このような形で一応新聞ジャーナリズムの中に吸収されたが、漢学系の学者たちのうち、才能のあるものはまた別な事情から新聞記者の生活に入ることとなった。前者の『仮名読新聞』『今日新聞』『読売新聞』『東京絵入新聞』等は、政治論を主としたものでなく、社会面記事や劇壇、花柳界等の記事いわゆるツヤ種に力をそそぎ、また難かしい漢文調の文章をなるべく使わないようにした庶民階級向の新聞であって、一般にこれらの新聞は小新聞[こしんぶん]と呼ばれた。
それに対して大新聞[おおしんぶん]と呼ばれたものは、政治論を主とするもので、法令、政府の布告等を掲載し、それについての社の意見をのべ、また漢文の知識を相当に持っていた旧武士の知識階級や書生をその主たる読者としていた。大新聞としては、明治五年発刊の『郵便報知新聞』が最も有力で、これには栗本鋤雲、矢野竜渓尾崎行雄犬養毅、藤田茂吉らがいた。栗本鋤雲は漢学者であり、かつ幕末に外国奉行や函館奉行をつとめた新知識人で、ヨーロッパにも旅をした経験があったが、明治政府に加わらずに、野に下って『横浜毎日』を経て『郵便報知』に入り、長くそこにいた。また明治七年発刊の『朝野新聞』には、幕府の奥儒者であり『徳川実紀』の編者成島司直[なるしまもとなお]の孫成島柳北[りゅうほく]が入って社長となった。柳北も騎兵奉行、外国奉行をした有力な幕臣であった。彼は明治政府に招かれたが参加せず、新聞社に入ったのである。更に同じ頃、幕末の訳官として福沢諭吉と並び称された才人福地桜痴[ふくちおうち]が『東京日日新聞』の社長となった。この新聞にはヘボンの助手をしたことのある英学者の岸田吟香[きしだぎんこう]もいた。
これらの新聞と、東京に移って『東京横浜毎日新聞』と名を改めた沼間守一[ぬまもりかず]や島田三郎の旧『横浜毎日』とが、明治十年頃の代表的な大新聞であった。明治十年以後十七、八年までの間に国会開設運動が盛んになり、板垣退助らの自由党と、大隈重信らの改進党と、福地桜痴らの帝政党が並び立った時、これらの大新聞は、それぞれの政党と結びつき、新しく十五年にできた『自由新聞』も含めて、政治運動の舞台となり、また背景となった。
『郵便報知』と『東京横浜毎日』と『朝野』とは改進党系であり、また高田早苗の入った『読売新聞』もこの系統の色彩を帯びた。『東京日日』は帝政党で明治政府の計画していた絶対君主制を支持する傾向があった。また自由党は『自由新聞』の外に、『絵入自由新聞』や『自由燈[じゆうのともしび]』等を併せ発行した。
これらの新聞に集った記者たちの多くは、漢学系の教養の深い旧武士たちであって、政治評論を書いたが、その中でも文才のあるものは、批評的風俗描写を漢文で書き、単行本として出版した。
その代表的なものは明治七年に発行された成島柳北の『柳橋新誌[りゆうきようしんし]』であり、また同じ年から分冊で出た服部撫松[はつとりぶしよう]の『東京新繁昌記』である。柳北の『柳橋新誌』はこの時の十五年前に初編を出していて、この時出たのが第二編である。第二編において柳北は、柳橋の遊里における芸者たちの生活を描きながら、それらの子女の多くが落魄[らくはく]した旧幕臣の子であり、その女たちを買う官吏や政治家たちが、人間味を解しない田舎侍や、形式主義にとらわれている旧公卿たちであることを、鋭い諷刺をもって描いた。その第三編は、明治八年に刊行されるはずであったが、発売禁止となり、世に出なかった。
服部撫松は会津二本松の儒家の出であるが、新しい開化時代の東京風物風俗をユーモアと諷刺をもって描いて、大いに売れた。それで撫松は、柳北と並んで漢文戯作の最も有力な作家と目され、この時代戯作小説出身の魯文と並んで、代表的な流行作家となった。
更に撫松は、旬刊雑誌『東京新誌』を発行し、それに漢文の戯文や戯詩を書き、政治批判を行って、この雑誌がまた大いに売れた。それと同じ形式で、柳北が発行していた『荷月新誌』、山田風外[やまだふうがい]らの出していた『団々珍聞』等と並んで、これらの雑誌は一種の文芸雑誌群を形成した。また魯文もそれらにならって雑誌『魯文珍報』を出した。これらの雑誌にのせられたものは、漢文、漢詩、戯作系小説の外は、漫画入りの政治諷刺文、狂歌、川柳、都々逸等で、そういうものが一括して文学だと考えられていたのである。撫松も新聞発行の志があって、自分の経営する四通社から何度か新聞を出したが、それらは経営困難であったり、発行禁止を食ったりして、遂に彼は新聞人にはならなかった。
大新聞の記者たちに対する弾圧は、明治八年の新聞紙条例と讒謗律[ざんぽうりつ]とから始まった。はじめは新聞の創刊を奨励した政府も、新聞がその本来の批判機能を発揮するとともに、これを怖れるようになった。そして明治政府は、皇室や政府を批評する新聞記者に対して容赦なく罰金、起訴、裁判、投獄等をもって臨んだ。
大新聞系の新聞記者たちは、明治九年頃大量に起訴されて投獄された。この時成島柳北もまた、彼の下にいた末広鉄腸[すえひろてつちよう]の書いた記事の責を負い、末広と共に投獄された。その時、柳北を加えて二十九名のものが東京の鍛冶橋監獄に入れられていた。その中には政治的新体詩創始者である植木枝盛も含まれていた。これら囚人の大部分は獄中のすさびに漢詩を作ってたがいに慰め合ったという。
このような政治新聞である大新聞記者の中から、やがて多数の政治小説家たちが出で来た。末広鉄腸は『雪中梅』を書き、また『自由新聞』系の坂崎紫瀾[さかざきしらん]は『汗血千里駒[かんけつせんりのこま]』を、矢野竜渓は『経国美談[けいこくびだん]』を書き、東海散士[とうかいさんし]と号した柴四朗は『佳人之奇遇[かじんのきぐう]』を書き、藤田茂吉は『文明東?史』を書いた。これらの中には『雪中梅』のような空想的未来社会の政治小説もあれば、外国の歴史に取材した『経国美談』もあり、また日本の維新前後の歴史に取材した『汗血千里駒』や『文明東?史』や、更に『佳人之奇遇』のような内外の革命家たちの交わりを描いたロマンチックな空想小説もあった。その文体は漢文読み下し体が多く、当時の大新聞の読者の漢学的教養に向くものであった。
またその外に翻案小説、伝記小説の紹介等が多く出た。その中には、フランス革命を描いた桜田百衛[さくらだももえ]の『西洋血潮小暴風[にしのうちちしおのさよあらし]』とか、ロシアの革命に取材して明治十七年頃の自由党の被った弾圧を諷した宮崎夢柳[みやざきむりゆう]の『鬼啾啾[きしゆうしゆう]』等のすぐれた作品もあった。これらの政治小説は、魯文や藍泉らの戯作小説と対立して、二つの小説の流れを示していたが、その作家たちは、前者は大新聞に席をおく記者で、後者は小新聞に席をおく記者であった。
このように、作家がみな新聞記者であって、その属する新聞にのせるために執筆をするという状態は明治十八年頃まで続いた。この時代には、新聞や雑誌に席をおく外に、ほとんどの作家であることができなかったし、この二系統以外の純粋な文学というものもまた考えられなかったのである。
 
 
(前掲)

1/2「近代日本の作家の生活-1 - 伊藤整岩波文庫 近代日本人の発想の諸形式 から

江戸末期の文学者の物質生活がどのようなものであったかについて、ここに野崎左文の『私の見た明治文壇』から、野崎左文の師、仮名垣魯文の生活に関するところを引用しよう。 魯文は安政二年(一八五五年)十月二日、ちょうど安政の大地震の起った日には、数え年二十八歳になっていた。時代は早熟早老の時代であり、彼は二十歳頃から著述生活をはじめていたから、その時には中堅作家という立場にあったようだ。 その日魯文は「一冊の読切本を脱稿しその草稿を通二丁目の書肆糸屋庄兵衛方へ妻よしをして持たせ遣り、定めの作料金弐分を受取り来し、内一分を地代の滞りに払い、残り壱分にて米を買い、妻は井戸端で米を洗い自分は蒲団を被って書見中、突如としてかの安政の大地震が起り、魯文は梯子の下で壁土に埋られた」のである。 その当時の「作料」というものは、字数を計算すると読切本一枚約三十字詰め二十二行として本文四十枚(八十頁)の字数か二万六千四百字(序文は別)、これを現時の四百字の原稿紙に引直せば六十六枚である。『文庫』昭和二十八年一月号に、南島隆平氏が馬琴の天保五年の『八犬伝』の稿料の現在の金額への換算を発表しているが、時代が約二十年遅れるから、南島氏の換算率のうち、もっとも高い場合の推定を借用すると、一両は約一万円に当る。二分は五千円である。私自身の今の小説稿料の中位の標準で言うと一枚が千円であるから、六十六枚の原稿に対して、私は六万六千円を期待する。魯文はそれに対して五千円しかもらえなかった。そういうような状態であったから、それを書き上げた日に米が無くって、その金で買った米を炊いたという生活であったのも当然である。つまり作家は月に百枚か百五十枚書けるのが普通はせい一杯の能力であるから、魯文は月に一万円か一万五千円の収入であったことが分る。 幕末頃では、物価騰貴のため作料も上って合巻物一部(上中下三冊)が三両乃至五両であった。明治三年に魯文が『西洋道中膝栗毛』の初編を書いた時、その作料は一編十両であったという。この頃、三等巡査の俸給が五円であった。この時の五円は現在の一万五千円程度と見ることができよう。ところで『西洋道中膝栗毛』初編ば、字数にして約一万六千字、四百字詰の原稿紙にして四十枚である。そうすると四十枚に対する稿料が約三万円となる。一枚八百円位になる。しかし考慮に入れなければならない事は、当時魯文は通俗作家の第一人者で、最も読者の多い作家であった。現在(一九五四年)魯文級の大衆的な人気のある一流作家の小説の稿料は、多分三千円から五、六千円に達している。それに較べれば、魯文の八百円という稿料は、今の純文学作家の中の新人級の人たちが得ている稿料と同じもので、やっぱり安いのである。 江戸時代には、作家が原稿料だけで生活できるということはほとんど考えられなかった。山東京伝は、銀座一丁目の東側で店を開いて売薬を営んだ。読書丸、小児無病丸などが彼の売った薬である。また彼は煙管や煙草入れなどを売った。銀座と言うと、その当時は場末であって、木賃宿や大衆食堂などの並んでいるような町であった。 京伝の弟子馬琴は、文筆だけでは生活できないと師の京伝にさとされて、初めは占師になり、後では下駄屋の婿になった。魯文は花笠文京の弟子であるが、作家としての出発に当って諸作家賛助執筆を得た名ひろめのパンフレット「名聞面赤本[なをきけばおもてあかほん]」を出すに当って、師の文京に連れて行ってもらって、晩年の馬琴を訪ね、狂歌を一首はなむけとしてもらった。それが嘉永元年(一八四八年)のことである。魯文は本名を野崎文蔵と言い、京伝が銀座の東一丁目辺で薬屋を営んでいた頃、その筋向いに当る鎗屋町即ち銀座西三丁目辺に、魚屋の子として生れた。 魯文は名ひろめのパンフレット「名聞面赤本」を出してから六年目(一八五四年)位に文筆業者としての自活をはじめたが、彼は著作の外に手紙や引き札(商店の広告ビラ)の文案などを書き、またその家で古道具屋も兼業した。その少し後には、彼は文士の兼業として伝統的な売薬業をも兼ね営んだ。彼の売ったのは、牛胆煉薬黒牡丹[うしのきもねりやくこくぼたん]というのやその他の何種かであった。 そのほかに、魯文は、その当時の文人や画家たちの全部がそうであったように、金持ちの通人の取り巻きをして、それによって収入を得て生活した。後に『日日新聞』を起した作家山々亭有人(条野採菊)、後の黙阿弥の河竹新七、画家の河鍋暁斎や落合芳幾らと一緒に、魯文は細木香以などの金持の通人の遊びの相手をして狂歌や俳句を作り、芝居見物をし、小遣をもらい、また着物とか煙草入れのようなものをもらい、売女をあてがわれて、幇間と同じような生活をした。

  

2/2「近代日本の作家の生活-1 - 伊藤整岩波文庫 

近代日本人の発想の諸形式 から

明治維新は、そのような文人たちの生活に大きな変化をもたらした。民衆の興味が、これまでの戯作小説から離れた。魯文は新しい題材の作品を書かなければ、新時代に置き去られると気のついた珍しい作家であった。彼は、幕末からの代表的な新知識、西洋事情通であった福沢諭吉中村正直などの、ヨーロッパ文化の紹介本を題材として、明治三年から『西洋道中膝栗毛』(主として諭吉の『世界国尽[くにづくし]』『西洋事情』『西洋旅案内』による)を書いて、新しい形式の戯作として大いに人気を得た。その『西洋道中膝栗毛』の収入が前記のように、一編について十両であったのである。この本がよく売れたので、後の巻の作料は一編二十円位になったが、それでも生活は不安定であった。江戸時代からの戯作者たちの生活は極めて不安定で、窮迫したものであった。 魯文の弟子であった野崎左文は書いている。「明治七、八年頃までは戯作者に取っての飢饉年で、地本問屋からの註文もなく、偶々[たまたま]合巻物の類が出版されたところで、その読者の大部分を占める旧幕臣や御殿女中などは生活問題に迫られて身の振り方に惑うている混乱時代であるから、なかなか慰安として小説でも読もうという心の余裕がなく、町家の婦女子もその通りで売れ行きも頗る鈍っていたものと思われる。イヤこれはただ戯作者のみでは無くいわゆる江戸趣味の破壊と共にそれに基く所の総ての芸術は根底から覆されたのであった。」 魯文はそれらの戯作者の中にあって、新時代のシャレを応用した『西洋道中膝栗毛』や『胡瓜遣[きゆうりづかい]』(福沢の『窮理図解』をもじったもの)や『安愚楽鍋[あぐらなべ]』(スキヤキ屋食堂の新風俗を描いたもの)等を書いて、新時代に適応した唯一の流行作家であったか、やっぱり生活は不安定であった。彼は明治七年(一八七四年)、横浜に移転して、神奈川県庁の役人になった。その時の魯文の月給は二十円であった。魯文は毎月きまってきちんと入る二十円によって、はじめて安定した生活を営むことができたのである。 魯文が横浜に移った頃に、『横浜毎日新聞』が発行されていた。この新聞は日本で最初の日刊新聞で、発刊は明治三年の十二月である。魯文は県庁の教育関係の仕事をするかたわら、内緒でこの新聞の雑報の原稿を書いた。また彼は妻に新聞縦覧所というものを経営させ、自宅では売薬業をも行なった。 新聞は、はじめ雑誌と区別のつかない形のもので、明治四、五年に、急に幾種類も出て来た。『新聞雑誌』とか『日新真事誌』とか『郵便報知』などがこれである。この当時、一般の新聞は、半紙判のものを何枚か綴じたようなものであった。『横浜毎日』は洋紙一枚刷りで、広告を沢山とり入れ、広告と記事が相半ばし、広告によって経営が成立つようにした新しいやり方のものであった。

この新聞は明治四年頃の神奈川県令であった井関盛良の発意によって成ったもので、当時神奈川裁判所の通訳兼翻訳係であった子安峻と、鉛活字の日本における創始者本木昌造の門人陽其二が協力して作ったのである。記者には栗本鋤雲[くりもとじょうん]、島田三郎らの、当時のもっとも有能な評論家たちが参加した。 魯文はこの新聞に助力することによって、新聞というものの働きや構造を理解し、自分の文筆をもって新聞の世界に参加する決心をした。即ち、魯文のこの時の決心は、今までの出版屋に本の原稿を渡して収入を得る、という文学者に特有の生活よりも、新しく起った新聞の中の一つの働きとして作家が生きることになったキッカケであり、その後多くの戯作者が新聞に参加することによって生活する形式を作り出したのであった。 魯文は、翌明治八年(一八七五年)磯部屋という出版屋の出資を得て『仮名読新聞』というのを横浜から発刊し、その主筆となった。このとき彼が主筆として得た月給は四十円であった。この新聞は翌年東京へ移った。 『読売新聞』や『平仮名絵入新聞』(後の『東京絵入新聞』)ができたのもこの頃であって、高畠藍泉[たかばたけらんせん](三世柳亭種彦)、染崎延房[そめざきのぶふさ](二世為永春水)、前田香雪などの戯作家の文士がこれらの新聞に関係した。彼らの書いたものは、初め雑報即ち社会面の記事であったが、彼らはそのなかの興味深い事件を物語り化し、何日もに渡って連載した。それは「続きもの」と呼ばれていて、本当のニュースをいくらか作り話化したものであった。明治八、九年頃からこの「続きもの」に、二、三回続くものや十回も続くものが出て、読者に面白がられると、それに挿絵を入れ、次第に物語りとしての形をととのえて行った。明治十一年の八月、「金之助の説話[はなし]」という続きものが、『東京絵入新聞』に出た。これは署名なしの原稿であり、この新聞の署名人前田香雪の作と思われていた。しかし、それは、柳田泉[やなぎだいずみ]氏の推定によると、この新聞にいた二世春水染崎延房の筆であるらしい。「金之助の説話」はその当時起った小事件で、道具屋の息子の金之助というのが芸者に狂って金を使い込み、かつ悪者にだまされて自殺を企てるが、別な芸者に救われて大阪に行き、身を立てる、という話である。この話が「続きもの」として大変読者に受け、その後に何種類かの焼き直し本が出版された。そしてこの頃から後、「続きもの」は、積極的に小説という意識をもって書かれることとなり、新聞小説がそれらの戯作者系統の作家によって書かれるようになった。

このような過程を経て江戸時代の戯作形式は新聞小説として復活した。戯作者とその弟子たちは新聞記者になり、才能のないものは雑報を書き、才能のあるものは社に籍をおいて専ら小説を書くようになったのである。 社会面記事から小説を作るという順序は元禄時代(一六九〇年頃)の前後に近松門左衛門井原西鶴が心中事件や火事などの社会現象に取材して、多少ニュースの意味を含めながら物語りを書き、それから後に小説や浄瑠璃が発達した事情とも相似的なものと言うことができるだろう。 明治十年前後には、一流の新聞の発行部数は一万部位であった。そして新聞記者の収入は、編輯長級で七十円から百円位、平記者は十五円から二十円位であった。それ以下の探訪と言った外務記者は七円から十円位の俸給であった。魯文は『仮名読』の後に『今日新聞』というものの主筆になったが、その時の俸給は七十円であった。魯文はその月給の外に、明治になってからもまだ引き札(ビラ)の文案を書いて相当の収入があった。またその当時の文士たちは、時々書画会というのを催した。それは書や即席画の頒布会であって、その書や画を手に入れたいもの、または文士や画家の顔を見たいものがかなり集まったので、これが相当の収入になったから、魯文は、平均して月給の倍、即ち約百四、五十円の収入があったと言われる。 文士や小説家になろうとするものは、この時期には、これらの戯作者の下について新聞記者になり、雑報や短文などを書いて、才能を認められると、やがて新聞小説を書いて作家として認められる、というのが順序であった。饗庭篁村[あえばこうそん]は、はじめ文撰工として『読売新聞』に入ったが、前記の高畠藍泉がその新聞の記者になった頃から、藍泉について修業して、後には尾崎紅葉がこの新聞に入るまで『読売』の代表的な小説家となった。また斎藤緑雨は、明治十八年頃『今日新聞』にいた仮名垣魯文の弟子になり、魯文の指導を受けてのちに作家となった。