「割勘について - 河盛好蔵」新潮文庫 人とつき合う法 から 

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「割勘について - 河盛好蔵新潮文庫 人とつき合う法 から 

こんなフランス小咄がある。
デュヴァル君は二人の友人とその細君たちと一緒に、自動車でパリ郊外をドライブすることになった。パリを出で三十キロばかりのところへ出ると、彼は右どなりにいるデュポン君の耳もとでこっそりささやいた。
- ねえ君、僕らの友人のデュラン君は近ごろひどく不如意なんだ。で、まことにすまないが、自動車賃は君が払ってくれないか。そのかわり昼飯代は僕が受けもつから。
- いいとも、引き受けたよ、とデュポンが答えた。
それからしばらくしてデュヴァル君は、こんどは左どなりにいるデュラン君の耳もとで、こっそりとささやいた。
- ねえ君、僕らの友人のデュポン君は、近ごろひどく不如意なんだ。で、まことにすまないが、昼飯代は君がもってくれないか。そのかわり自動車賃は僕が払うから。
- いいとも、心得たよ。とデュラン君が答えた
ずるい男もいるものだが、しかし私たちが一緒にお茶を飲んだり、飯を食ったり、もしくは長い距離をタクシーに乗ったりするときには、だれがそれを支払うか、ということは相当気になることである。クラス会とか同窓会のように、最初から会費のきまっているのは気が楽だが、仲のよい友だちが偶然顔を合わせて、だれいうともなく、これから一パイ飲みに出かけようじゃないか、といってくり出すときには(そしてこの種のばあいが、私たちのつき合いではいちばん多い)、最後の勘定になると、気前のいい男がいて、すぐに払ってくれるのでないかぎり、一瞬間座が緊張するのが普通である。

合理的な支払い方

そのとき、だれかが「割勘にしようじゃないか」と言ってくれると、みなホッとする。しかし、それを最初に言い出すには、ちょっとした勇気がいるのである。というのは、割勘というものは、なにかシミッタレのように、いまだに考えられているからである。
だれでも知っているように、割勘のことを英語では「オランダ式のおごり」とか「オランダ式の勘定」とかいう。それは、オランダ人はスコットランド人と並んで、最も吝嗇[りんしよく]な国民と考えられているからである。してみれば、イギリスでも割勘はシミッタレなこととされていることが分る。余談になるが、フランス語では、「オランダ式のおごり」に当る言い方はないようである。それはフランス人は、吝嗇の点にかけてはどこの国民にも劣らないから、オランダ式などとは気恥ずかしくて言えないからかもしれない。というより、フランスでは割勘こそ最も合理的な支払いかたで、シミッタレなどとは、少しも考えていないからに相違ない。
わが国では、慶応大学の学生は割勘主義を、かがやかしい(かどうか知らないが)伝統として守っているのに対して、早稲田の学生には、金のある者が率先して支払う美風(かどうか知らないが)がある、ということをきいた。もっとも、こういうことを私に教えてくれるのは、私と同時代の慶応や早稲田の卒業生であるから、現在でもその通りであるかどうか、私は知らない。
ところで私自身はどうかというと割勘主義に大賛成である。天性ケチで、勘定高いからかもしれないが、そのほうが精神の衛生にかなっていると信じている。自分で飲み食いしたものは自分で必ず支払うが、ひとさまの勘定までは手がとどきかねますという方針を確立して、それを実行するほうが、酒を飲みながら、今日の勘定はだれが払うのだろうかと心の隅で考えているよりは、はるかに酒がうまいはずである。
それと同時に私は、他人からおごってもらうのもあまり好きでない。亡き池田成彬[せいひん]は、だれからも、いかなる種類の借りもないことを誇りにしていたそうであるが、私はそんな強い性格の人間ではなく、むしろ、役人をしていたら、情にほだされと汚職行為をやりかねない弱さがあるので、そのような弱さに抵抗するためにも、他人からできるだけ恩恵を受けないように努力しているのである。つまり、ひとの親切を恩に着やすいから、ひとからおごってもらったりすると、なんとかして早くお礼をしなければならぬと考え、その気持の負担に苦しむからである。
きくところによると、イギリスでは、バーやクラブなどで友人から酒をおごられると、すぐその場でおごり返すことになっているそうである。その風習はうらやましい。友人の好意を喜んで受けて、それをその夜のうちに返せるからである。わが国のように、返礼するまで、いつも気にかけていなければならぬよりは文明的ではないだろうか。
私の割勘主義も、人に迷惑をかけたくないかわりに、人からも迷惑をかけられたくないという個人主義、もしくはエゴイズムから出ているのである。つき合いにくいやつだと言われればそれまでだが、しかし、人間同士のつき合いでは、この方が長持ちすることは確かである。
 
君子の交わり

「君子の交わりは淡きこと水の如し」という有名な格言がある。ある人の解釈によると、これは、君子の交わりには金銭が伴わない、という意味だそうである。人間のつき合いに金銭がからんでくると、どうしてもその交わりが濁ってくる。兄弟もただならぬほど親しい交わりをしていた親友同士が、急に仇敵のようになることは珍しいことではないが、その原因を探ってみると金銭問題に端を発していることが少なくない。金銭の負担は、たとえどんなにささやかなものであっても、お互にかけないように心がけることは、人とつき合う上に、何よりも大切なことである。割勘主義も、そのための一つの配慮である。君子は交わるに割勘主義をもってす、と言ったら言いすぎになるだろうか。
割勘と言っても、それは同僚や友人のあいだでやるべきことで、目上の人や先輩と食事を共にしたときに、そんなことをしたら、失礼に当ると考える人は多いであろう。たしかに、せっかく本当の好意から御馳走してやったのに、「先輩、勘定は割勘にして下さい」など言う後輩がいたら、きっとイヤなやつだと思われるにちがいない。しかし先輩にはタカるものだという考え方もどうであろうか。先輩たりとも、みだりにおごってもらうべきではない。
むかし泉鏡花が後輩の里見トン氏の小説を「煙管[きせる]持たしても短刀位に」といって激賞したあとて、こんなことを書くと仲間ぼめだと言われそうだが、そんなやつは「喚[わめ]かして置いて、此方[こなた]は酢章魚[すだこ]で一杯やろうか、それとも青柳鍋を.....を割前で」と書いたことがある。この「割前で」の意味を玩味すべきである。