「タテマエとホンネ - 岸田秀」中公文庫 続ものぐさ精神分析 から

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「タテマエとホンネ - 岸田秀」中公文庫 続ものぐさ精神分析 から

世の中はタテマエで動いている。親は子を愛していることになっており、子は親に感謝していることになっている。学生は教師を尊敬していることになっており、教師は女子学生に性欲をもっていないことになっている。友人は助け合い、官吏は公僕として国民のために尽し、新聞は真実を報道することになっている。
タテマエはしばしばホンネと喰い違う。この場合、タテマエは欺瞞であり、そんなものはかなぐりすてて、ホンネ通りに、人間性のありのままの真実に忠実に生きればいいと言い切れるほど、事態は単純ではない。本当を言えば、親だからと言って、子に愛情がもてるとはかぎらない。馬鹿な教師はいっぱいいるし、尊敬しろと言っても無理だ。美人の女子学生を見れば、教師だって性欲を刺激される、ホンネ通りに行動すれば、つい邪魔な赤ちゃんは殺してコインロッカーへということになる。これは極端な例としても、人間関係はある共通のタテマエをたがいに守るということで成り立っている部分が大きいから、タテマエが崩れれば、人間関係は崩れる。
そもそも、人間を信頼するということが、相手がそのタテマエに忠実に行動すると信頼することであって、何やらよくわからぬそのホンネをいつむき出しにするかもしれない人とは安心してつき合えない。女性は、産婦人科医が、性的好奇心に駆られ、女性器を眺めてニヤニヤする普通の男ではなく、患者の病気を正しく診断し、最善の治療を施すという医者としてのタテマエを守ると信頼しているから、その身体をさらすのである。
かと言って、いつもタテマエ通りに行動していたのでは、窮屈でとても辛抱できるものではない。ホンネを抑えつけ過ぎれば、いつかは必ず爆発する。
もちろん、タテマエとホンネは必ずしも絶対的に矛盾するわけではない。タテマエとは、社会的に、あるいは少なくとも二人の関係において是認されたかつてのホンネであると言うことができる。
恋愛中の二人はたがいに永遠に愛し合い、助け合うことを誓う。そのとき、それは二人のホンネであるが、そのうち別のホンネが生じてきて、かつての誓いはタテマエとなる。ホンネというものはつねに変化してゆくものだから、タテマエとホンネは必ずしも矛盾しないとは言ってもそううまくはゆかないことが多い。
そこで、喰い違ったタテマエとホンネをどう調整するかが人生とは大きな問題となる。また、タテマエはわれわれのおかれている社会的立場に伴っており、われわれは、国民として、社員として、夫として、親としてなど、さまざまな立場をもっているから、それぞれのタテマエのあいだにもしばしば矛盾があり、その調整も問題である。
第一の方法は、ある一つのタテマエを断乎として守り、ほかのものはいっさい無視する方法である。この方法によれば、当人は少なくとも主観的には矛盾のない生活を送ることができるが、そこにはどうしても無理がある。きまじめでゆとりがなく、何の面白味もないひからびた人間ができあがりがちである。しかし、この種の人は、そのタテマエを信条としながら必ずしもそれに忠実になれないことにひけめを感じている者から見れば、尊敬すべき信念の人で、何かの拍子に、聖人、偉人、軍神などに祭りあげられたりする。
第二方法は、逆に、タテマエを捨て(もちろん、全面的に捨てることはできないが)、開き直ってホンネに従って生きる方法である。これは、悪くすれば犯罪者として社会から排除される危険があるが、芸術などある種の領域で才能があれば、この方法もある程度は可能である。しかし犯罪者とまではゆかなくとも、多かれ少なかれアウトサイダーとして疎外されることは覚悟しておかねばならない。この種の人は、遠くから見ていればいかにも自由奔放にふるまっていて、人びとのあこがれの的になったりするが、家族など直接的接触をもつ者には迷惑この上ない存在である。
第三の方法は、表面ではあくまでタテマエに従い、裏で隠れてホンネを満足させる方法である。偽善者がこれである。
以上三つが典型的な方法であるが、たいていの人は、そのどれか一つではなく、時と場合によっていろいろな方法を用いて何とかタテマエとホンネの矛盾を調整しているようである。人間は誰でも、ある程度は聖人、ある程度は犯罪者。ある程度は偽善者である。ホンネを表現するために、酒の力を借りなければならない人もいる。ユーモアに訴えて、タテマエのなかにうまくホンネをすべり込ませる人もいる。自分の口からはホンネを言わず、相手が察してくれることを期待する人もいる。タテマエとホンネは、いわば弁証法的関係にあり、その矛盾にどう対処するかはわれわれの生き方にかかわる問題である。