「自殺装着 - 養老孟司」文春文庫 涼しい脳味噌 から

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「自殺装着 - 養老孟司」文春文庫 涼しい脳味噌 から

アルツハイマー病の初期にある女性患者が、ある医師の考案した「自殺装着」を利用して自殺した。米ミシガン州での事件である。現在の法律では、これはもちろん自殺幇助になる可能性が高い。
この事件が、ただのローカルなニュースとしてではなく、わが国にまで報道される裏には、現在の社会の状況がある。死に関する議論が、広く行われているからである。私の職業柄もあるが、自分の本棚を見てみると、縁起の悪いことに、「死」という文字が題名に入った本が、たくさん並んでいる。「脳死」の本が多いから、当然そうなるのだが、それだけではない。叢書「死の文化」というのが、何冊もある。アリエスの大著、『死を前にした人間』も刊行されたばかりである。
なぜ、死の議論が流行するのか。生れた以上は、いずれ死ぬにきまっているのだから、いまさら議論しても始まらない。そうは思わないらしい。
問題は、医学の発展で死の予想がつくようになったことである。右のアルツハイマー病の患者さんも、自分の近い将来がどのような悲惨なものになるか、それをよく知っていたはずである。心臓移植も、移植しなければ、自分の心臓が長くは持たない。それが明瞭にわかるようになったことが大きい。ひょっとしたら、助かるかもしれない。そうした漠然たる望みをつなぐことが、いまでは不可能になってきているのである。
これは、とうに予測されたことだった。なぜなら、社会の流れは滔々[とうとう]と「情報化」「管理化」に向かってきたからである。わが国でも、とくに戦後は、「知ること」をタブーとしなくなった。「新聞が守る、みんなの知る権利」。それなら「あなたの命は、あと三カ月です」。これが「知る権利」に属するのかどうか。その点が明瞭でないまま、「知る」方が独走したきらいがある。ものごとを「知る」には、知るだけの強さがいる。子供の体力で、三千メートル級の山を登るのは困難である。それなら、体力をつけなくてはいけない。あるいは、成熟しなくてはならないのである。「知る」権利と同時に必要な「体力」を、この社会は、きちんと養成してきたか。おそらく問題はそこにあろう。それが「死の叢書」に対する欲求として現われる。せめて本でも読んで、「体力」をつけなれば。
「自殺装着」が合法か否か。それはまさに、社会の成熟に依存している。自殺はじつは、少ないものではない。私は、むやみにタバコを吸う。その一本一本が、じつは「棺桶の釘」だということは、本人がよく知っている。飲み過ぎもそうなら、働きすぎもそうである。人はこうして、なにげなく自分の命を縮めている。それと、自殺装着との間には、ほとんど距離はない。
近代科学は、人生のさまざまな部分を、「予測可能」としていった。子供を産むか産まないか、それもいまでは「自由」である。かつて子供は、「与えられたもの」であった。それはいまでは、「作るもの」であり、「作らないもの」である。たまたま子供の「できない」人が、その自由を奪われているに過ぎない。人工受精の発達により、いまではそれも、あまり問題がない。代理母もある。
産むか、生まぬか、その権利が親に生じた社会の初めに、コイン・ロッカー・ベビーがまず発生したのは、当然のことであった。できた子供を片づける時期が、無知のために、単に遅れただけの話である。生誕は死の対極だが、そこではすでに、ほとんど完全な恣意が社会的に許されている。それなら、死が自由であっていけないという理由は、まったくあるまい。
中東に事件が起こる。自衛隊を派遣すべきか否か。ある政治家がこう議論する。有事の際を予測して、そのときにはどうするか、きちんと考えておくべきだったのだ、と。有事は、いつ起こるが、なにが起こるか、それがわからない事件を言う。あらゆる事件が予測可能になるはずだ。それが「正しい」。そうした前提が、人々の心の中に暗黙のうちに生じてきている。私はむしろそれを恐れる。
もともと人間は、「一寸先は闇」という人生を生きる。それがじつは、「生きがい」を生じ、「生」を感じさせる。自分の一生は、一度しかない、二度と繰り返しのできない過程だ、と。予測可能性の向上は、この「生」を削る。その代わりに与えられるものは、成功であり、繁栄であり、安全である。それが現代の日本社会である以上、文句は言えまい。そこでは、自殺装着は、いずれ実現されさるを得ないのである。
予測し、管理するのは、誰か。それは、われわれの脳である。すべては脳が言うがままである。アルツハイマー病では、その脳だけが、脳の意図に反して、次第に破壊される。自分の悲惨な末期を予測すれば、脳はそれは嫌だ、と言う。こうして、脳は、自殺装着によって、身体のすべてを道連れにするのである。そこではだから、ひょっとすると、心臓や腎臓が、脳に対して反乱を起こすのではないか。それなら、と心臓は言う。死んだ脳を捨て、他人の身体で生きようではないか。それが臓器移植ではないのか。
なにものとも知れぬものに対する「畏[おそ]れ」、社会がそれを失ってかなりになる。その結果は、われわれ自身が背負うしかないのであろう。
(一九九〇年十二月)