「竹輪、カマボコは一卵性双生児 - 檀一雄」中公文庫 わが百味真髄 から

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「竹輪、カマボコは一卵性双生児 - 檀一雄」中公文庫 わが百味真髄 から


この正月、日本の諸所方々から、カマボコだの竹輪だの、数多くいただいたので、自分なから、趣味の悪い実験をやらかしてみたことがある。
実は、各地の竹輪を薄く一切れずつに切って、竹輪の数だけの小皿にならべ、わが家の猫「ニャー」を向こうから呼びよせて、試食させてみたわけだ。「ニャー」はまっすぐ皿のほうに歩みより、数多い小皿の上の竹輪の匂いに一々嗅ぎ入っていたが、やがて、思い決したふうに、その一つの竹輪にパクついた。
その竹輪は柳川の竹輪なのである。
見ていた来客の諸君らは、
「主人が柳川だから、猫は主人の匂いを嗅ぎ知っているに違いない」
とハヤす。今度は竹輪をとりかたづけて、各地のカマボコを同じ流儀でならべ、同じ「ニャー」を放ってみると、また、あやまたず、柳川のカマボコに喰らいついた。
「畜生。亭主と猫で共謀して八百長をやってやがら」
とどなり出す客までいたが、八百長ではない。まったく不思議な成りゆきで、私自身びっくりした。
私の好みからいったら、柳川の竹輪よりは、宇和島の竹輪のほうがずっと好きだ。カマボコだって、柳川のカマボコより、高知のカマボコのほうが、ずっとおいしいと信じ込んでいる。
しかし、猫の実験は嘘いつわりのないことであって、竹輪もカマボコも、数多い種類の中から、ハッキリ柳川のものだけを選び出した。
私の考えでは、おそらく、中に混入されている防腐剤の多少を、猫が嗅ぎ知ったものだと思う。つまり過酸化水素の匂いを、人間は識別しにくいが、猫はハッキリと鼻につくのかもわからない。
もうなん年昔であったか、私は宇和島に、講演に出かけていったことがある。町をブラついていて、その町角の竹輪を二、三本買い、一かじり[難漢字]かじってみたらあまりうまいから、ポケットウイスキーを一飲み飲んでは、竹輪を喰い、またウイスキーを飲んでは、竹輪を立ちかじりながら、城の周辺をうろついていたところ、私のうしろから、一台の小型トラックがやってきて、
「ただいま、竹輪を丸かじりしながら、歩いておられるのが、今晩の講師、檀一雄先生でございま-す。」
と町いっぱいに響き渡る拡声機でアナウンスされたときばかりは、まったく、まいった。いまさら、ウイスキーを引っ込めるわくにもゆかず、竹輪を捨て去るわけにもゆかないから、松の根に腰をおろして、その三本の竹輪とウイスキーをタンノウしたものである。
爾来、宇和島の竹輪を日本第一等だと信じ込んでいるのだから、わが家の猫のサカシラぐらいで、柳川の竹輪を日本一だなどと思い直すはずはないのだが、つくづく、不思議なことであった。猫は過酸化水素に格別敏感なのかもしれない。
 


さて、カマボコだが、カマボコは蒲鉾の字のとおり、蒲の穂に似通った竹輪型のモノが、カマボコであったに間違いなく、今でも鳥取から島根のあたりは、竹輪型のモノを正しく「野焼きカマボコ」などと呼んでいる。
つまり、魚肉を細片して石臼でよくすり、これを竹串にぬき通して、円筒形に形をととのえ、これをあぶったものが、色も形も、蒲の穂によく似ているから「蒲鉾」といったわけだ。
原料の魚は、はじめはナマズを使ってやったものだといわれているし、「本朝食鑑」という本によると「江州ノ庖人鹿間某ナルモノガ初メテコレナルヲツクル」となっていて、当時は、文字どおりの「蒲鉾」であったようだ。やがて、杉板などに魚肉をはりつけて、焼いたり、蒸したりする現在のカマボコがつくられるようになり、かえって「蒲鉾」型の原形を残しているモノを竹輪というようになった。
ハンペンも、もとは同じもので、魚肉のすり身をお椀のフタなどに入れて、蒸したあげく取り出したから、半円形になっているわけで、それを半平といった。この半平を胡麻油などで揚げたものが、天プラであり、今だって、九州は、天プラといえば、この半平の揚げたもね、つまり、東京のサツマ揚げが、天プラなのである。
博多の「因幡うどん」などで、「丸天ウドン」といったり、宮崎の「三角茶屋」などで、「天プラソバ」といって、東京式の天プラウドンや天プラソバが出てくるかと期待していると、「サツマアゲ」だけのウドンやソバで、ガッカリする旅のお客さんがいるが、値段をよく考えるがいい。
三十五円で、東京でいう天プラソバを喰せていたら、たまったものじゃない。
ところで、カマボコや竹輪の原料だが、川魚なら「ナマズ」がよいことは、さっき書いた。
カマボコや竹輪は、味のよさももちろん大切だが、また、ヒキというか、コシというか、シコシコした口ざわりも大切だから、味と腰の強さをミックスしなければならぬ。その上にもう一つ、原料の安さが問題となるわけで、うまいカマボコ一点張りでゆくならば、たとえば、柳川の殿様のように、
「ハゼ口[くた]の頬ベタ(頬の肉)ばっかりでカマボコば焼いてみらんかい」といえるのだが、カマボコ屋にしてみたら、そうわゆかぬ。
昔から、土地土地によって、エソを主体にしたり、フカを主体にしたり、ハモを主体にしたり、トビ魚を主体にしたり、イシモチ、イカ、ヒラメ、等々、さまざまのものを混合して苦心を重ねるわけである。
第一、原料が一年中一定しているとは限らない。
私は、いつだったか、ホトトギスの啼きしきる頃、屋久島に出かけていって、おりから大豊漁のトビ魚でつくられた自家製の天プラ(つまりサツマアゲ)やツミレをご馳走になり、こんなにおいしいものを喰べたことがないと、あらためて驚き、あきれたものだ。
そのときに飲んだ熱湯割りの焼酎といっしょに忘れられない味である。
日本のあちこちの海浜で、さまざまの原料によってつくられたカマボコ、竹輪の類を、味わいくらべることができるのも、日本を歩く旅のしあわせの一つである。
富山の、昆布を巻き入れたカマボコよろしく、仙台のササカマボコよろしく、出雲の「野焼きカマボコ」よろしく、田辺の「南蛮焼き」よろしい。大川の竹輪よろしく、仙崎のカマボコ、豊橋の竹輪、またよろしくで、まことに、日本万々歳である。