「放っといて協会 - 別役実」文春文庫 92年版ベスト・エッセイ集 から

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「放っといて協会 - 別役実」文春文庫 92年版ベスト・エッセイ集 から

家内が入るというので、私もついでに「日本尊厳死協会」に入った。このところ大いに評判になっているそうで、電話を掛けたら、申し込んでから暫く時間がかかりますということであったが、手続きをして一週間ばかりで、「会員証」が送られてきた。私は今、毎日それを身につけて、出歩いている。
これさえ持っていれば、私は出先で不慮の事故に遇い、瀕死の状態に陥っても、「会員証」にちゃんと、《徒[いたずら]に死期を引き延すための延命措置は一切おことわりいたします》と書いてあるのだ。つまりこうしておかないと今日の医学は、それがヒューマニズムだと思っているせいか、当方の思惑とかかわりなくよってたかって命を、それも命だけを引き延しにかかる傾向があるのである。
言うまでもなく私だって、別に死にたいと思っているわけではないが、こっちがせっかく「ああ、死ぬんだな」と思っている時に、おせっかいにも現在ある医療技術を総動員して、無理矢理それを引きとめ、「まあ、今のところはまだ何とか生きているよ」という状態を出来るだけ長びかせようとする、そうした無駄な努力はしてもらいたくない、と思っているのだ。しかも「とんでもない」と思うのは、医学自体がそれを「医学の手柄」と考えているらしい点であり、更に「とんでもない」と思うのは、従ってそれに要した膨大な医療費をその親族に課して当然と考えているらしい点である。
特にこの医療費の点は、「人の死を前にしてそんなことは問題にすべきではない」という、ヒューマニズムの側から暗黙の圧力が作用しているから、なかなかやっかいである。たとえば医学というものは、確かに医学ではあるものの医療機関における経済活動の一種であるから、患者から多くの医療費を「まきあげる」のを旨としており、従って死ぬとわかっている患者の死を出来るだけ引き延ばして医療措置を施し、医療費を増加させる行為は、極めて目的に叶ったものと言えるが、一方患者とその親族の側は、これに経済理論だけで対抗することは出来ない。そうしようとすると、前述した「ヒューマニズムの立場」を暗に持ち出され、「患者の生命に対する思いやりがない」だの「ケチ」だのと言われかねないのだ。
もちろん、医学それ自体が口に出してそう言うわけではない。こちらが、医学の経済活動に対して経済論理で立ち向おうとすると、医学の力で身をかわし、ヒューマニズムとしての医学に、その表情を変えてしまうのだ。すると、その意を体したこちらの周辺の人々が、我々をそうした目で見るというわけである。こうした医学の、巧妙な戦術の前で、これまで患者たちは、手もなく敗北させられ、泣く泣く無駄な医療費を払わされてきた。「尊厳死協会」が出来るまでは、である。
誰もがこれに入っていれば、そいつが瀕死の状態で、口もきけなかったとしても、医学が無駄な医療措置をしようとするのに対して、直ちに「やめてくれ」と言うことが出来る。それも、本人が本人の意志でそう言っていたということん、こちらが代弁するだけであるから、言った当人が「患者の生命に対する思いやりがない」だの「ケチ」だのと非難されることはない。私の場合、前述したように家内もこれに入っているから、万一の場合家内の医療費を私が大いに節約したとしても、誰にもうしろゆび指されることはない、というわけである。もしかしたら「尊厳死協会」というのは、こうした医学に対する戦術のためのみ、作られたのではないかと思われるほどだ。
ともかく、こうしたものが出来、それに誰でもが入れるということは、気分の問題だけだったとしても、いいことであろう。ただ、入ってみて気がついたことであるが、ちょっと難を言えば「尊厳死」というこの名称が、やや厳[いか]めしすぎるということがある。重々しすぎるのだ。
私自身の入った時の気分からすると、それほどのことはない。まあ、「放っといてくれ」という程度のことだろうか。つい最近亡くなった、私の師であり、多くの人々に惜しまれた名優・中村伸郎氏の句に、「除夜の鐘、おれのことなら放っといて」というのがある。言うまでもなくこれは、医学について言っているのではなく、我々の罪障消滅を意とする「除夜の鐘」について言っているのであるが、気持ちは同じではないかと私は考えるのである。どうもここへきて、この種のものはややおせっかいなのであり、それがただ単に鼻につくだけでなく、私は私であることを、少しずつ浸透しつつある気配があるのである。
「日本放っといて協会」というのはどうであろうか。このための「会員証」が出来、それを毎日ポケットに入れて出歩くことが出来れば、もう少し軽やかに歩くことが出来るかもしれないと、私は考えている。