「池袋三丁目に移転 江戸川乱歩」中公文庫 文豪と東京 から

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「池袋三丁目に移転 江戸川乱歩」中公文庫 文豪と東京 から

芝区車町の家は大木戸あとに近く、京浜国道と東海道線からすぐの場所にあったので、土蔵の洋室が気にいって住みついては見たものの、汽車と電車と自動車の騒音が、だんだん耐え難くなって来た。汽車はときたまだけれども、電車と自動車はひっきりなしに走っているので、殊に自動車のクラクションの音が、神経衰弱になるほど、身にこたえた。一年ほどは何とか辛抱したが、もう我慢ができなくなって、二た月ばかり借家を物色したあとで、池袋三丁目の今の住居を見つけて、七月に引越しをした。
池袋の家にも昔風の土蔵がついていた。実はそれが気に入ったのである。地面も広く三百五十坪あり、平屋建てで、八、六、六、四半、四半、四、三、三、二、の十室に湯殿。土蔵は二階建てで述坪十五坪であった。家賃は月九十円、大きな門がついていて見かけもなかなか立派であった(但しこの門は後に戦災で焼失した)庭木も豊富であった。私は土蔵の階下に、車町の洋室の書棚を運ばせて取りつけ、例の彫刻のある大机もそこに置いて、数年の間はこの土蔵の中を書斎に使っていた。夏は冷々してよろしいが、冬は寒いので、反射式でなく、動力線を引かなければ取りつけられない、環流式の電気暖房を設けて、寒さを防いだ。
貼雑帳を見ると、池袋に引越した当座は、また新聞雑誌社の訪問があったようでもある。文士というものは、度々引越しをすると、その度に新聞や雑誌に新居の写真などが出て、宣伝になるという説があったか、なるほどそういうこともあるなと感じたものである。
貼雑帳にはそういう写真や記事が幾つか貼ってあるが、八月十七日の「東京日日新聞」(今の毎日)に、土蔵の中の階段に腰かけた浴衣姿の写真がのって、下に高田保氏の書いた記事が出ている。同氏が写真班をつれて、土蔵を身に来たのである。高田氏のその言葉は才筆で、なかなか面白いから引用して見る。
「蔵の中には妖気がござる。妖気の中に乱歩先生がござる。だが妖気がありすぎたのでは先生が妖気になってしまうから、そこで扇風器ということになる。涼しさを呼ぶためではなくて、しっとりとした妖気を払うためだとおっしゃる。先生には適度の妖気なのだろうが、われら常凡の徒にはすこし冷えびえしすぎるので、『虫なども出るでしょうな?』すると先生は落ち着いたもので『長虫、蜥蜴、ガマ[漢字]、百足』と虫屋の主人のようにすらすらと名を挙げられた。そこで、こっちも調子にのって『蜘蛛に蝎.....』とかぞえ立てると、なんと途端な先生の顔がおびえたように真青になられたのだから妙である。『おきらいなのですか?』『いや、嫌いたから、それらを筆にのせるのです』と悪気を払うような恰好で団扇をパタパタとさせられた。長虫、蜥蜴、ガマ、百足の方は妖気だけなのだが、蜘蛛とか蝎とは、あの足の長い虫共には、どうも悪気があるらしい。だが、われら常凡の徒にいかでか妖悪の別あらんや。折柄日没迫って窓の外に蜩の唱が聞え出した。妖気の中で聞けば、その唄までが変にきこえる。即ち早々に辞し去った」
八月第一日曜発行の「週刊朝日」には、やはり土蔵の中の例の大机に向かった私の写真が大きくのって、「薄暗い仕事場と赤い錦絵の蒐集」という一頁の記事が出ている。妖気作家の転宅は、やはり妖気を以って報じなければならなかったのであろう。
そのとなりに貼ってある新潮社の雑誌「日の出」の口絵は、私の小説連載中なので、余り妖気呼ばわりはしていない。コンモリと茂った木立ちを背景にして、庭の芝生にデッキ・チェアを置き、浴衣姿でその上にふんぞり返っている私と、そばの籐椅子にかけている家内の写真が出て、その下に「江戸川乱歩氏、新居の夕涼み」という解説文。曰く「黒蜥蜴の作者江戸川乱歩氏は、この夏、写真のような奥深い庭のある家に移られた。蝉の声の好きな氏は樹木の多いこの家の土蔵にこもって、存分に蝉時雨を聴きながら、執筆に暑熱を忘れられるのである。(後略)」
(『探偵小説四十年』昭和三六年より)