「解説(うらおもて人生録・色川武大) - 西部邁」新潮文庫 うらおもて人生録 から

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「解説(うらおもて人生録・色川武大) - 西部邁新潮文庫 うらおもて人生録 から

他人の沈黙に接するのは怖いものだが、とくにそれが自分より年配のひとの沈黙である場合、じっと観察されていること請け合いなので、怖さも一入[ひとしお]である。色川武大氏はそういう怖さを私にはっきりと印象づけてくれた。といっても、さる小さな酒場で、たまたま色川氏の近くに坐ったことが三度ばかりあるということにすぎない。色川氏が特別に私を観察しなければならぬ謂[いわれ]はなにもなかった。おそらく色川氏は、御自分の心象の赴くところをふくめて、人間一般があいもかわらず醸し出している雰囲気の微妙な襞[ひだ]を、眺めていたのであろう。ただその眺め方には、“堂を升[のぼ]って室に入る”の感がまぎれなくあった。自他を眺めることにおける練達がいささか恐ろしげな水準に至っている、と思わずにはおれなかった。
色川氏の作品については、『怪しい来客簿』、『百』そして『麻雀放浪記』しか読んでいなかった。それでも、人生に対する聡明な、“しのぎ方”とでもよぶべき色川氏の態度はよくよく読みとれた。人生のかかえる矛盾、逆説、二律背反のただなかにおいて、かくも際疾[きわど]く平衡を保ちえた例を私はほかに知らない。だから先日、酒場ではじめて色川氏と言葉を交すことができたとき、御一緒されていた奥様にむかって、酔ったふりをして正直に、「人間とも思われない方とよく結婚されましたね」といってしまったわけである。なぜかんな物言いができたというと、あえて大胆にいってのけるなら、色川氏の態度の決め方に親近感を抱くからである。四分類ぐらいで人間を区別けするかぎり、彼我の人生の型は同じカテゴリーに属するのだと僭越ながらいいつのりたい。要すれば、本格と擬似の差はあるものの、非行者である点に変わりはなさそうなのである。
さてこの『うらおもて人生録』は、非行の天才の手による劣等生向けの教育書である。教育書といえば、いかにすれば優等生になりうるかを善行者が訓示するというのが相場であるが、本書にそういう倨傲[きよごう]や偽善は一片もない。「教育の最良の方法は良い手本を示すことである」(ユング)という真実が、それのみが、律儀に語られている。つまり、著者の「どろどろの体験」にさりげなくもとづきながら、劣等生が「生きていくうえでの技術」を「自分なりのセオリー」として「身体[からだ]にしみこませる」ことができるように、諄々[じゆんじゆん]と説いている。その説法は、たゆとうようにみえながらツボを外すことなく、冷淡をまじえつつも愛情あふれる、といった風情である。「人間なり、世間なりのレベルは手ごわい」こと、そして「真実というものはすべて、二律背反の濃い塊りになっている」こと、これらの事柄を知るのは魂の技術によってであり、ひとたびこの技術を習得すれば、劣等生にも非行者にも、魅力的な人生がありうるのだと著者はいう。
魅力とは「自分が生きているということを、大勢の人が、なんとか、許してくれる」ようにさせるような力量のことである。好むと好まざるとにかかわらず勝負を基調とする世間において、ひとまず敗者の地位にある劣等生は、優等生には易[やす]いこの許しを獲得するために、悪戦を強いられる。迂回、沈潜、飛翔をとりまぜて動員しなければ、「これを守ってきたからこそメシが食えてきた、そのどうしても守らなければならない核」としての「フォーム」に達することができない。この「たたかいのしのぎ」を教えてくれたのは、著者にあっては、いうまでもなく博打場[ばくちば]である。
「運の通算はゼロになる」こと、そうであればこそ「運をロスしない」こと、「大負け越しになるような負け星を避けていく」こと、つまりは「九勝六敗ぐらいの星をいつもあげる」こと、こうした様々のセオリーを、「原理原則は愛嬌のないものだ」と知りつつ、わからなければならない。「わかる、ってことは、言葉でわかったりすることじゃないんだからな。わかる、ってことは、どういうことかというと、反射的にそのように身体が動くってことなんだな」という著者の文句が、博打をふくめて非行のまねごとをいくつかやってみた私の腑にストンと落ちていく。「苦を自分でひろっていく」こと、「ひとつ、どこか、生きるうえで不便な、生きにくい部分を守り育てていく」こと、つまり「洗練された欠点」を身につけることが大事であって、負けまいとふんばってばかりいれば、怪我をする。「怪我ってのはどういうことかというと、実人生の場合は、拭[ぬぐ]いきれないようなこと、だね」。これも、まだ怪我の跡の残っているらしい私には、スンナリと了解できる。
しかし、軍事教練で「気をつけッ、といわれると笑っちゃう」ような非行者はどうすれば「わかる」のであるか。実行はむずかしいが、その原理は簡単である。当り前のことを憶[おぼ]えていればよいのである。「大勢の人たちに関心を持つ」こと、「まず白紙(の状態に還って)、あらゆるものの下につくが、そのかわり、眺めてる」こと、そしてなによりも、「人間とは愚かしく不恰好[ぶかつこう]なものなり」と知ったうえで、「大勢を好きになることで、自分の感性の枠を拡げる」ことを忘れなければよいのである。
「人を好きになること、人から愛されること」、著者の味わってきた熾烈[しれつ]な人生のしのぎは愛を前提にしている。照れ性の著者にかわって照れずにいってみれば、人生のうらおもてに愛をつらぬけ、これが本書の主調音である。著者がどれほど人を愛したか、私はつぶさには知らない。だが、「自分が勝てばいい。これは下郎の生き方なんだな」という著者の思いは人並をはるかにこえ、そこから愛の宗教が、より厳密にいえば、そうした宗教が必要だという思いが、語られずとも聞こえてくる。
「新聞の隅っこに小さく出た記事があってね。品川の食肉処理場から馬が一頭、逃げ出すんだ。深夜の海岸沿いの道路を、西の方にまっすぐ疾駆した。むろん追手も出たろうし、巷の人も取り押さえようとしたろうが、気丈な馬で、振り切って逃げた。
だが、どこまで走っても、彼の世界はないんだな。とうとう細い道に迷いこんで、とりかこまれて、彼は前肢をあげて人間たちにむかってきたらしいが、捕まってしまう。
今でも、それに似た小さな記事を見ると、俺は息がつまってしまうんだねえ」
著者は、劣等生や非行者にむかって、うかうかするとこの馬のように捕まってしまうぞ、是が非でも自分の世界をみつけよ、とよびかけているのである。察するに、著者は人間と動物を区別しないのであり、愛の宗教はそうではなくてはならない。「野良猫の兄弟」の章でも語られているように、「危険を避けているだけじゃ駄目なんだねえ。やっぱり、聡明でなけりゃねえ」という真実を著者が学んだのは、「なんだか楽しそうなんだ。天空海闊[てんくうかいかつ]というのかな、楽々と生きている感じなんだな」といった調子の一匹の野良猫からである。
人生論はいまどきの流行ではない。いわゆる「知」とかが人生や体験をこのうえなく侮蔑し、人生なしの芸術、体験なしの知識が言葉のショー・ウィンドウに並んでいる。今の時代の優等生とは、このガラスのなかの陳列競争の勝者ということであり、これが時代の本線である。著者は劣等生にたいして、「本線とちがうコースがみつかるといいんだがね」と静かに誘いかけている。支線をみずから敷設しようとすれば、やはり、人生の機微を知るか知らぬかが決定的である。私のように、おそらく愚しくも、自分で子供を作ってしまったような人間は、著者のように劣等生の前で平静ではおれない。世間に受け入れられて生き永らえることそれじたいが幸運であり、そして博打の論理からして、幸運の次に不運がくるのであってみれば、子供らの不運は己れの責任ということになる。嗟乎[ああ]、やんぬるかな。