「人は死んだらどこへいくのか - 五木寛之」幻冬舎文庫 大河の一滴 から

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「人は死んだらどこへいくのか - 五木寛之幻冬舎文庫 大河の一滴 から

ここで少し古風な仏教の話をしてみたい。
鎌倉時代の宗教者であった親鸞は、日本独自の仏教を確立したたぐいまれな思想家でもある。彼は念仏ひと筋という師・法然の教えに帰依することから出発した。
しかし、彼が探求した阿弥陀仏信仰は、必ずしも一般にいわれるような一神教的信仰ではないと私は思う。八百万の神々とはいかなくとも、数多くの仏や菩薩の存在を認め、その諸仏のなかから阿弥陀如来という仏を選んで、その仏ひと筋に帰依するという信仰だからである。さらにいえば、むしろ阿弥陀仏という奇特な仏のほうから手をさしのべて人びとを迎え入れてくれるのだ、という感覚がつよい。
ところで、世間では仏教とは仏を拝む宗教だと思われているらしい。そしてその仏とは、仏像であり、仏画であり、目に見えるイメージとして人物化された仏という像であるように思うのがふつうである。
しかし親鸞の教えの核心を直視すれば、必ずしも仏像や仏画が仏ではない。それは補助的な手段である。
特別な修行をしたり、突然なにかの啓示をうけて信仰に目覚めたりするような選ばれた人たちをのぞいと、私たち一般の生活人は神や仏といった目に見えぬ存在を容易に受け入れることがむずかしく、また感情移入することもできない場合が多い。
そこでシンボルとしての仏像や仏画が信仰心を托する対象として生まれてくる。たくさんの物語も作られる。しかし、それは必ずしも宗教の本質ではない。本堂の奥に鎮座まします仏像や仏画は、悩める人々を平安の向こう岸へ送ってくれる船であり、暗いところを照らしてくれる灯[あか]りのようなものだと考えるのが本当だろう。それは迷って生きている私たちに手をさしのべ、手を引いて導いてくれるありがたい存在として感じられる。だからこそ私たちは仏像を拝み、頭を下げ、感謝を捧げるのだ。
しかし、そこが目的地ではない。親鸞が思い描く本当の世界、やがて人が導かれる場所は像や絵の向こう側にある浄土という境地である。その存在をありありと感じられるのが、信仰の本質というものだろう。したがって親鸞にはじまり蓮如がひろめた浄土真宗では、その本尊を「名号[みようごう]」とさだめた。名号とは六字、または八字、ときに十字の文字を紙に書き、それを拝むのである。「南無阿弥陀仏」という六字の名号が多く用いられている。
しかし、字を拝むとはどういうことか。字は言葉をあらわす手段である。とすれば、親鸞の仏とは、南無阿弥陀仏という観念であり、それは具体的な目に見える仏ではないということになる。目に見えないもの。そして無限大のスケールをもつ世界。永遠の時間。いや、時間の観念すら超えたもの。それを阿弥陀という言葉で呼んだ。
阿弥陀」とはサンスクリットの音を漢字に訳したものである。もともとも「アミカーユス」(無限の時間)、そして「アミターバ」(無限の空間・限りなき光)という言葉からきているらしい。そして、そのような無限大の存在の人格化・形象化したものとして阿弥陀仏という仏が物語のなかで生みだされてきた。
南無(ナーム)とは、帰命[きみよう]するという意味である。帰命とは、その前にひざまずき、頭をたれ、その手にすべてまかせ、その存在に合一[ごういつ]する、と誓うことだろう。蓮如はその親鸞の南無=仏に帰命する念仏を一歩進めて、仏との出会いを歓び、感謝することばとして念仏の意味を人びとにひろめた。
南無阿弥陀仏の解説は、仏教の入門書を読めばどこにでも出てくる。ここでは端的に、または乱暴に結論だけをいう。
地方の年配の人たちのあいだでは、念仏をするときに、「ナムアミダブツ」または「ナモアミダブツ」と全部を正確に発音しない人も多い。「ナマンダブ・ナマンダブ」と念ずる人がふつうで、なかには「ナマンダ・ナマンダ・ナマンダ」と口のなかでつぶやく老人たちも少なくない。
もちろんこれは「南無阿弥陀仏」が変形したものだろう。しかし、「南無阿弥陀仏」と念ずることで十分に親鸞の真意は伝わっている。親鸞が見つめたのは仏像や仏画ではなく、じつは目には見えない無量・無限の、科学的合理的世界と対立する世界=浄土であったといっていい。そして、世間でいう地獄・極楽というのは、その地点への通過点であると私は考えているのだ。
私は心のなかで合掌するとき、ごく自然に「ナーム・アミータ」とつぶやいている。ブッディストと自称するのもはばかる我流の親鸞ファンとしては、そのほうがなんとなく自分の気持ちにしっくりくるように感じられるからである。
念仏などという古くさいものが嫌いならば、それをいちいちとなえなくてもいい。「ありがとうございます」でも、「スパシーボ」でも、「グラーチェ」でもかまわない。このひどい世の中で、こうしてなんとか生きているだけでもありがたいと、心のなかで手を合わせて感謝すればいいのだ。