「モンローの逆説 - 安部公房」ちくま文庫 文豪文士が愛した映画たち から

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「モンローの逆説 - 安部公房ちくま文庫 文豪文士が愛した映画たち から

マリリン・モンローが死んだとき、ぼくは何人もの人から - とくに、親しくしている女優さんたちから - まるで身内をなくしでもしたように、おくやみを言われたものである。どうやら、ぼくが、モンローの崇拝者であり、モンロー、もしくは、モンロー的女性にあこがれているのだと、誤解されたらしい。
たしかに、ぼくは、しばしばモンローの名を口にした。演出家やプロデューサーには、「モンローのような女優さんがほしいですね」と、無いものねだりを飽きもせずに繰返し、また女優さんには、「そこは、つまり、モンロー・ウォークの呼吸ですよ」と、馬鹿の一つおぼえのように繰返したものだ。しかし、返ってくるのは何時も、分かりにくい冗談に、無理に相槌をうとうとでもするような、馬鹿笑いだけにきまっていた。ぼくの言おうとしていることが、ほとんど相手には通じなかった証拠である。
もし、マリリン・モンローを、単なる一つのタイプとしてしかとらえないなら、たしかにそんな注文には、馬鹿笑いででも答えるしか仕方がなかったかもしれない。逆に、馬鹿笑いでしか報いられなかったということは、タイプとしてのモンローこそ、実は世間の通念だったことにはなりはしまいか。
むろん、その通念が、世間一般にとどまっているあいだは、べつに問題にすることもないのだろう。チャップリンだって、常識的にはしばしばタイプとして受取られてきたものである。そして、タイプとしてのチャップリンの模倣が、馬鹿げているのと同様、タイプとしてのモンローの再現が無意味であるのも、当然のことである。
だが、果して、モンローを、単なるタイプときめつけてしまって差支えないものだろうか?すくなくも、ぼくにとっては、そうはいかない。
たとえば、「ナイヤガラ」のモンロー・ウォークや、「七年目の浮気」の、地下鉄通風口でスカートが吹き上げられる場面のような、いかにも彼女らしい典型的なシーンのいくつかを思い出そうとして見ても、そこに注意を集中すればするほど、かえって彼女の実体は、ぼんやり薄れてしまうのだ。反対に、演劇的表現としての女性像を追い詰めていこうとすると、たどりつくのは、いつもきまってモンローのイメージなのである。けっきょくぼくにとってのモンローは、実体であるよりは、表現であり、帰納的であるよりは、演繹的な存在であったらしい。
むろん、モンローは、モンローを演じ、モンローしか演じられないと、人々に思いこませることに成功した。それが、ハリウッドの商業主義の要求であったことも、事実にはちがいない。が、同時に、モンロー一流の文明批評だった点も、見のがすわけにはいかないと思うのだ。
俳優が、自分自身を演ずるということは、すなわち、裸になってみせるということだ。裸になると言っても、さまざまななり方があるが、商業主義が女優にそれを要求する場合、その裸はしばしば、文字どおりの裸を意味する。モンローはいざぎよくそれをやってのけもした。しかしその場合、演ぜられたモンローと、実体としてのモンローのあいだに、つねに可能なかぎりの距離をおくことを忘れなかった。だから、モンローが肉感的な表現をとればとるほど、そのエロティシズムは、不思議に鋭い批評になってせまってくるのである。
モンローを、セックスの象徴のように言う人がいるが、おおよそ誤解もはなはだしい。あの、くちびるをすぼめ、肉感にうるんだような、モンロー独特のスチール写真を見て、こみ上げてくる笑いを感じなかったとしたら、それはよほど愚鈍な人間である証拠だ。モンローは、そうした愚鈍とたたかうために、衣裳を厚くするのではなく、逆にますます肉体をむき出しにしていかなければならなかった。そしてついに、刀折れ、矢つきて、死をえらんだのだ。
ソ連の《イズヴェスチャ》は彼女の死を「モンローはハリウッドの犠牲者である。ハリウッドは彼女を生み、そして殺した」と評したそうだが、一面の真実はついていても、すべてを言いつくしているとは言いがたい。「社会主義は、マヤコフスキーを生み、そして殺した」とは、簡単に言いきってしまえないのと、同じことである。どこの世界でも、過剰な批評精神の帰結は、いずれ不吉なものと、相場がきまっているように思うのだが.....
ハリウッドは、モンローを生んで、殺したかもしれないが、生む前に殺してしまっているわが国よりは、まだ罪は軽いかもしれない。とにかくぼくは、ここ当分、これまでどおりのモンロー主義でおしとおすつもりでいる。
(一九六二年)