「猫 - 奥本大三郎」文春文庫 91年版ベスト・エッセイ集 から

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「猫 - 奥本大三郎」文春文庫 91年版ベスト・エッセイ集 から

庭で犬が吠えている。はじめは怒ったような声だったのが、そのうちに「キューン、キューン」といいはじめた。
二階の書斎の窓をあけてヴェランダに出てみると、思ったとおり、猫にからかわれてうちの犬がいら立っているところである。私がそうっと出て行って上から見ていると、犬がこっちを見あげて、「も-、何とかして下さいよ-」という顔をする。
お隣りての境のブロック塀の向うに、小さな白い猫がうずくまっていて、ブロックにあけてある風通しの穴から、面白そうにこっちの庭を覗いているのが、上からよく見える。それから白い華奢[きゃしゃ]な右手を穴からこっちの領分に突っ込んで、二、三回、引っ掻くようなまねをした。やっぱり右利きであるらしい。ペローの物語にでも出てきそうな、肘まである白い長い手袋をはめた貴婦人のような腕である。
それでべつに犬の鼻面でもほんとうに引っ掻いたわけではないらしいのだけれど、犬はいっそういら立って、吠えている。まるでここ掘れわんわんのポチのような興奮ぶり。猫の身になって考えればずいぶん危険なことをするもので、穴から出した手をがぶりとやられたらどうするんだ、と言いたくなる。骨も何も砕けてしまうだろう。それでも猫は平気で何度でもやる。
昔、犬を鎖につないでおいたら、犬の手の届く範囲のちょっと外で、わざわざ猫が大あくびをするのを見たことがある。犬が怒り狂って小舎[こや]から跳び出して行っても、ぎりぎりで届かない。猫はそっちの方を見もしないで、悠々と歩き去って行くのである。
いら立つ者の神経を逆撫でして楽しむ。そういうところは、はなはだ猫的で、猫嫌いの人の猫の、まさにそこが嫌いなのであろうけれど、犬にしても、多少、そんな性質はもっているものである。毎朝、五時か六時ごろ、御老人の散歩者が犬を連れて、この近所を通る。すると、うちの斜め向いのテリアが羨ましさと悔しさで、やはりブロックの穴から絶叫する。
主人と一緒の犬は、綺麗なシェトランド・シープドッグなのだが、そのときまったく相手にならない。神経質のカタマりのような塀の中の声を完全に無視して、いやむしろ主人と共にいることの楽しさを強調するように、いそいそと小走りに、その穴の前を通り過ぎる。早朝のこの繰り返しは、テリアにとっては精神衛生上、まことによろしくなく、シープドッグにとっては、それだけで楽しさが増すようである。誰でも、自分が幸せであるだけでは充分ではない。やはり他人が不幸でなければ。
犬をからかう猫は毎日来る。時間はべつに決まっていなくて、どうやら退屈になると来るようである。しまいにその数が二匹になって、白と雉猫が入れかわり立ちかわり、やってくるようになった。
私は本来、犬の味方でも猫の味方でもないけれど、犬はうちで飼っていて、私のたった一匹の家来である。それが毎日、何の進歩もなく、屈辱を受けているのは見るにしのびない。
それで厳正中立を守ることができなくなって、ヴェランダの上から「しっ」と言ってみたのだが、猫はちら、とこちらを見るだけである。ものを投げるふりをしたら、一瞬ぎょっと身構えたけれど、何にも持っていないことはすぐに見破ったらしい。まったく平気な顔で、その場を動かない。こんな面白いことがやめられるかというところ。
だんだん腹が立ってきたのは、考えてみると犬も飼い主も程度が同じだが、「ようし」とばかり、いったん家の中にとって返した。何か投げるものを探すつもりである。とはいっても、私は暴力は好まないなら、もし万一猫にあたっても怪我をしないもの、それからもちろん、捨てても惜しくないもの.....と机の上を見渡しても、鉄の文鎮とか、辞典とか、顕微鏡とか、右の条件に抵触するものばっかりである。しかたがないから、はやる心を抑えて階段を下り、茶の間に行った。
するとそこに、梅干しの種が三粒ほど。しめたとそれを掴んで、足音をしのばせ、ヴェランダに出てみると、猫はまだブロック塀の穴から犬を覗いてからかっている最中である。「えいっ」と猫めがけて投げつけると、白い体のすぐ横の地面に落ちた。猫はふんふんとその匂いをかいで、ちらとまたこちらを見る。
続いてまた、大きく振りかぶって第二球。小さな猫は「うへー」という顔で、とっとっとっと行ってしまった。ペットの喧嘩に飼い主が出る。いかにも興醒めの体である。もちろん、決して恐縮などしていない。
こういう一部始終をしかし、近所の人に見られては具合が悪い。「あそこの御主人は、学校の先生を辞めたらしいけれど、昼間からパジャマで、いっしょうけんめい猫に梅干しの種を投げて、まあ」と言われても、まったくそのとおり。授業をしていても、学生があんまり無反応なので、あほらしくなって私は学校を辞めてしまったけれど、言葉ね変化球を投げつけてもほとんどまったく効果がなかったから、今にして思えば、教壇から梅干しの種を投げてやればよかったのである。鳩に豆鉄砲、学生に梅干しの種。
猫と犬のこのやりとりを見ていると、そもそも頭の良さには二通りあると思う。動物の知能を人間の基準で考えても意味がないかも知れないけれど、サーカスの芸などを教えれば、犬の方が猫よりはるかに難しいことができるであろう。しかし相手をからかったり、だましたりすることにかけては、猫の方がずっとうえのように思われる。一代の碩学[せきがく]が、海千山千の芸者に惚れてたぶらかされているような趣がちょっとある。
しかしボードレールの詩に出てくる猫などは、碩学と遊女、両方のイメージを合わせもつ謎めいた存在である。少くとも、「熱烈に恋する者も、謹厳な学者も、熟慮に満ちた歳ともなれば、ひとしく猫を好む」ようになると詩人はいう。猫は「学問と晩楽[ヴオリユテ]」との友なのである。そうして次の二節はまさに、そうした両面をもつ猫の姿を描いたものである。

瞑想にふける猫どもは さびしい土地の
その奥地に身を横たえ、果てしなき夢を見て眠る
スフィンクスの 気高い姿勢をとっている。

豊満な腰には魔法の火花が秘められ、
神秘の瞳には、黄金の破片が、
細かい砂粒のように、おぼろにちりばめられている。

ここでとうとうスフィンクスまでが出てきて、そのへんのただの猫どもが、じつはらいおんの親戚であり、何を考えているかわけのわからない存在であるという話になるわけである。
まったく猫族の動物はみんなただうとうと眠っていても謎めいて、何か考えているように見える。われわれ猿族の動物なら、よほどの修行、苦行の末にやっと身につけるような威厳と気品を、生まれつき身に備えているのである。頭はこっちの方がずっといいと思われるのだが。