「私の落語鑑賞 - 江國滋」旺文社文庫 落語美学 から

f:id:nprtheeconomistworld:20200203083251j:plain


「私の落語鑑賞 - 江國滋旺文社文庫 落語美学 から

落研」という組織がどこの大学にもある。落語研究会、略して落研。それが寄り集まって即ち全落研 - と、そこまでは知っていたが、先日慶応の落研会員の一人に会って「君たち落研の人は.....」といったら「ラッケンというのは素人で、ぼくたちはオチ研と呼んでいるんです」と教えられた。
ラッ研かオチ研か知らぬが、ぼくはかねてから大学の落語研究会なる存在自体に疑問を感じている。一と口に「落語研究」といい「落語鑑賞」という。だが、そもそも落語というものは研究だの鑑賞だのと開きなおって聴くべきものだろうか。気随気儘にふらりと聴いて、アハハと笑いのめす、それでいいのではないか。だから、研究会などと肩ヒジははらずに、すなおに「落語愛好会」ぐらいにしておけばいいのに、と思ったりする。
この間も日大落研の女子学生が、おそろしくまじめな顔で「どういう聴き方をして、何を研究したらいいのでしょう」と問うので、
「何もそうむつかしく考えないで、すなおに聴いてすなおに笑うこと。それに、一流といわれる人の噺をできるだけたくさん聴くこと、それだけじゃないかな」
と答えたのだが、彼女にはそんな無責任な返事がどうもものたりない様子だった。
また、ある地方大学国文科の女子学生から「落語のサゲの分類を研究して卒論を書こうと思うが、ついては参考文献を教えてほしい」という手紙がきたことがある。「それほど学問的な研究だとは思いません」と返事を出したら、それっきり何もいってこなかった。
若い人たちの間に落語熱がたかまるのは、まことに結構なことだが、さりとて、落語というものを必要以上に買いかぶりすぎるのもどうかと思う。もっとも、そんなことをぼく自身、数年前に反古にも等しい雑文を集めて落語の随筆集を出版したところ、それでもう「落語評論家」といわれるようになった。くすぐったいような、バカバカしいような、背中がムズムズするような気持である。いまでも、たまに何かのパンフレットや新聞の片すみに短い雑文を書くと、きまって文末に括弧して「落語評論家」。なぜ「愛好家」ではいけないのだろう。どうしても評論家でなければいけないのなら、間に「的」の字を入れて「落語的評論家」としていただけないかと申し出て一笑に付されたこともある。
そんなわけで、ぼくは落語を天下の大芸術だと思っていないのだが、そのくせ「落語なんて」という人に出会うと、にわかにムラムラと反撥心が生じてくるからおかしい。
よく落語と聞いただけで頭から「くだらないもの」ときめこんで、さげすむような顔をする人がいるが、その人たちが考えるほど落語は低級ではない。それでなければ、落語があんなにもハバひろい層によって支持されるはずがない。早い話が、危機だ危機だといわれながらも、つぎつぎに誕生したホール落語は、いずれも満員札止めの盛況だ。客席は、お年寄りから若いBG、学生まで、色とりどりである。それも、ただ観客動員数が多いというだけではなくて、いわゆる有名知識人にこよなく愛されているてんでも、ちょっとほかの芸能には類がない。ひところ東横落語会に行くと小泉信三博士や志賀直哉氏の姿がきまって見られた。中川一政画伯にお目にかかったら「落語というものは大したものだと思うね。ぼくはむかし、絵で食えなくなったら落語をやろうかと思っていたんだ」といわれたし、亡くなられる直前に尾崎士郎氏も「わたしは落語がうまいんですよ」いっておられた。「落語の題名を借りて純文学の短篇をいくつか書いてみたいね」といわれたのは阿川弘之氏だ。また、現存するただ一人の元大審院長霜山精一氏は、ラジオで落語ばかりひろって聴いておられた。ノーベル賞に輝く朝永振一郎の唯一の趣味が落語であることは、まだ記憶に新しいところだ。
落語という話芸の、何がこれほどまでに人の心をとらえるのだろうか。
古典落語の妙味は、一と口にいえば、いつまでたっても新しさを失わないことだと思う。ここで新作論を展開するつもりはないが、試みに古典落語新作落語を聴き比べてみると、よくわかる。新作にも時にも深味のある噺がないこともないが、ほとんどの噺は、うわっつらだけのゲラゲラ笑いを狙ったものが多く、はじめて聴くとちょっとおもしろくても、二度目からはもうおかしくも何ともなくなる。ところが、古典といわれる落語のほうは、大方の愛好者が口を揃えていうように、聴けば聴くほどおもしろい。その秘密は、人間をえがきつくしていることと、笑いに一種の厚みがあることにとどめをさす。
はじめに述べたとおり、「おかしかったら笑えばそれでよろしい」のが落語の大原則にちがいないが、しかし、その笑いは決して単純なものではない。微笑、苦笑、哄笑、嘲笑、泣き笑い.....。そうしたさまざまな笑いがかもしだす複雑なニュアンスこそ落語の生命である
「落語なんて」と十把一からげにかんがえておられる人のために、いくつかの実例によって、これから古典落語の魅力を解剖してみようと思う。