(巻二十四)眉寄せて日向ぼこりの下手な人(奥坂まや)

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2月7日金曜日

今日の一句も身に沁みます。生き方一つで愉しくもつまらなくも生きていくんですな~。

注射くすり
風はおさまったものの深々と寒い朝でございました。

待つていし今日の寒さでありにけり(ほりもとちか)

(*細君が寝る前に高村光太郎の詩“冬”を朗読してくれた。でも、あたしや冬は好きじゃない!)

細君は眼科へあたしは泌尿器科へと指先が冷たくなる街へと出かけました。
泌尿器科では半年に一度のエコー、エックス線、採血と三点セットを検査をしていただいた。先生との診察はアッサリでしたもので、今のところは画像では問題ないとのことである。さてどうなることやら。

啓蟄やエコーで探る腹の虫(石塚寿子)

さて、昼飯であるが、今日は「日高屋」の湯麺・餃子・燗一本はやめにして、吉楽さんに向かった。想定では鍋焼きうどんで一杯であったが、エコー検査のために朝食を抜いていたので腹が減り、荷風の如くカツ丼に一本つけた。大変美味しいというわけではないが腹具合、懐具合、昼酒のつまみ兼用という要件を満たすよろしい選択であった

店の壁に先場所の番付表が貼ってあり、徳勝龍はちゃんと左すみにございました。

三十を老のはじめや角力取(樋口道?)

細君は眼科のあとは一日静かにしているので、昼飯のあとは生協で夕飯の弁当を仕入れた(細君は細君で調達済み)。カツ重弁当、チキンカレー弁当、唐揚げ弁当、焼肉弁当、揚げ物弁当、などが五百円前後で並んでいる。たしかに安いがこれを毎日食するという運命が待ち受けているとしたら!いや贅沢を言ってはいけないのだ。ハンバーグ、スコッチエッグ弁当を選んだ。
夕食にこれをいただいたが、ボリューム有り過ぎで食べ切れずである。
自分達で飯が炊けなくなったらどうしょう?世の中が平穏なら宅配給食かな?平穏でなければどうなるんだろう?何に出合っても暗く暗く発想が拡がるなあ。

 眉寄せて日向ぼこりの下手な人(奥坂まや)

ということであります。

 BBC Radio 4
Smart Consumer
Second-Hand Clothes
https://www.bbc.co.uk/programmes/p07nxkt9
(After 03 minutes 20 seconds from the beginning)
Go ahead =進行する、実施される
Well London Fashion Week went ahead anyway, but, instead of calling for cancellation, charity Oxfam sought a different approach. They launched a counter-campaign called Second Hand September, encouraging people to resist buying any new clothes for 30 days. *********** on Instagram had taken up at the time of recording, hashtag ********* 34,000 posts. I spoke to ********** *********, Oxfam’s sustainable fashion expert.

荷風の真似してカツ丼で一杯のできたよい日でした。感謝します。
お金払って、国保に負担をかけて検査していただきながら、“死にてえはないだろう”と言われるかも知れませんが、生きたい気持ちと生きていたくない気持ちが並立してんですよ。生きたいと言うのは正確じゃないな、死ぬのが怖いという気持ちと生きていたくないという気持ちがあるんだ。腎障害から尿毒症で逝くのもありそうな結末かなと想定はしています。尾崎一雄の妹は苦しんでました。村上春樹の猫はあっさりと逝った。短期で昏睡で無痛でお願いします。


 「いろいろの死 - 尾崎一雄岩波文庫 日本近代随筆選1 から

上の妹が、二十一で死んだ。三つ違いだから、私が二十四の時だ。私が一番悲しんだのは、この妹の死だった。その頃私は肋膜炎をやり、学校を休学して郷里の家で療養をしていた。妹は腎臓炎だったが、私が病気中に病み出し、私が全快しないうちに死んで了ったのだ。妹が病んでいる一年の間、私は病人ながらも妹の看病をした。母は私と妹の二人の看病で、よく身体がつづいたと思う。妹は私の云うことでないときかなかった。尿毒が頭に来て、殊に視神経を犯され、歩いている人が逆さに見えるときがある。「逆さに歩いてはいや」と云われるのはつらかった。妹が私の云うことだけは何でも信じている様子はあわれで、私は看病に全力をつくしたが、とうとう死んで了った。その癖妹が呼吸をひきとるときのことはちっとも記憶にない。覚えているのは、妹の死体を母が泣き乍[なが]らアルコールで拭いてやったことや、その顔を紅やおしろいで化粧してやっていたことだけだ。私は、大正十四年四月、初めて出した同人雑誌の第一号にこの妹の死を材料にした小説を書き、翌十五年十月には、その小説に手を入れたものを「新潮」に出して初めて原稿料を貰った。私が早稲田を出る前年である。



 「猫の死について - 村上春樹新潮文庫 村上朝日堂の逆襲 から


この猫は元気がよくて固太りした食欲旺盛な雄猫で - このへんの描写は村上龍氏のパーソナリティとは無関係 - 性格も開放的で、うちに来るお客にはなかなか受けが良かった。膀胱の具合が悪くなるといくぶん元気がなくなりはしたが、前日まではとてもそのまま死んだりするようには見えなかった。近所の獣医さんのところにつれていってたまった尿を抜いてもらい、結石を溶かす薬を飲ませたのだが、一夜明けると台所の床にうずくまって目をぱっちりと開いたまま冷たくなっていた。猫というのはいつも実にあっさりと死んでしまうものである。あまりにも死に顔がきれいだったので、日なたにそのまま置いておけば解凍されて生き返るんじゃないかという気がしたほどだった。