「揚州大明寺 - 陳舜臣」文春文庫 巻頭随筆3 から

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「揚州大明寺 - 陳舜臣」文春文庫 巻頭随筆3 から

唐招提寺の国宝鑑真和上像里帰りのことを、中国では鑑真大師回国と表現している。和上とは厳密には授戒の師の意味であり、鑑真さんは天平宝字二年(七五八)、朝廷から大和上の尊号を贈られた。日本では和上といえば、すぐに鑑真の名が連想されるほど、それはぴったりした称号であるし、またすでに深くなじまれている。けれども中国では、和上のままではいちいち説明が必要なので、高僧にたいする一般的な称号である大師を用いたそうだ。おなじ漢字を用いる国でも、歴史背景が異なるので、「同文の誼[よしみ]」に頼りきることはできないのである。
鑑真さんの故郷の揚州で、里帰りを迎えて法要がおこなわれたのは、ことしの四月十九日のことであった。私は朝日放送のゲストの資格で、法要の前日、上海から揚州に着いた。法要の場所は、かつて鑑真さんが律を講じていた大明寺である。この寺に日本僧の栄叡[ようえい]と普照がやって来て、授戒の師として来日を請うたのは唐の天宝元年(七四二)であり、それから鑑真渡航の大ドラマが始まったのだ。
- 揚州はこじんまりした、しずかなまちですね。鑑真さんにふさわしい気がします。
境内にいた日本人関係者のなかに、そんなことを言う人がいた。
現在の揚州市は人口二十八万、たしかにこじんまりした中小都市である。けれども、唐代の揚州はじつはもっと大きかったのだから、いま目のまえのまちのたたずまいを、鑑真さんの時代の揚州に重ね合わせるべきではない。
最近、考古学的な調査がおこなわれて、唐代の揚州城の規模がほぼ判明している。唐代といっても、それは隋代に造営された江都城にほかならない。時代がくだるにしたがって、揚州の城郭は小さくなるが、ありようは、はじめに造ったのが不必要に大きすぎたのであろう。なにしろ無類の豪華好みの煬帝[ようだい]の手になったものなのだ。
大明寺の東に、観音山と呼ばれる小高いところがあるが、そこは迷楼の跡ということがわかっている。迷楼は煬帝の建てた大宮殿で、「神仙でもここへ来れば迷うだろう」と自慢したことから名づけられた。城壁と濠とをへだてて迷楼の隣りにあった大明寺も、おそらく現在の規模よりずっと大きい伽藍だったにちがいない。
鑑真さんの時代は、煬帝から百余年たっているが、やはり豪華好みの玄宗皇帝の治世であった。まちや寺の大きさだけでなく、そのムードもずっとはでやかだったはずだ。
揚州は大運河の起点である。長いはいだの南北分裂を統一した隋が、その統一を固めるために、南北を結ぶ大運河をひらこうとした気持はよくわかる。すこし急ぎすぎて無理をしたため、隋は短命王朝で終わった。完成した大運河は、隋の滅亡をよそに、忙しく機能したのである。起点の揚州が忙しいまちなったのはいうまでもない。交易、運輸の中心として富み栄え、外国の商人もおおぜいやってきた。いまも揚州市内にのこっているイスラム墓地は、最も古いのが南宋期のものだというが、アラビア人やペルシャ人はもっと早くから来ていたにちがいない。
インドや東南アジアからも商人や僧侶が往来していたはずだ。日本の遣唐使も、新羅との関係が悪くなってからは、朝鮮半島沿岸コースをあきらめ、長江をめざして大運河を北上するようになった。鑑真さんは少年時代から、日本人を含めて、おおぜいの外国人を見ていたであろう。
近代の貿易港は巨大な外航船を寄せつけねばならず、揚州はその条件をみたすことができなかった。そして、南京条約で開港した上海に、かつての忙しさを譲り、こぢんまりとした、しずかなまちになった。鑑真さんのころは、大明寺から迷楼が望まれたであろうし、寺自身もずっとカラフルだったであろう。
この寺は南朝劉宋の大明年間(四五七-四六四)に創建されたので大明寺と名づけられた。一七六五年、清の乾隆帝はみずから筆をとって、「法浄寺」の額を寺に与えた。大明は五世紀の元号だが、清の皇帝の頭には、前代の明王朝の名がその寺名に重なって、おもしろくなかったのだ。勅命だからやむをえず、それ以来、法浄寺と改名せざるをえなかった。ところが、このたび、鑑真さんのせっかくの里帰りに、寺名がちがっていてはおかしいので、再びもとの大明寺に戻すことになった。「大明寺」の新しい額はできていたが、法要の前日までそのうえに「法浄寺」と書いた紙が貼られていた。
鑑真さんについての行事は、中国ではこれがはじめてではない。和上の死は十四年後、揚州に寄った日本の遣唐使によって伝えられ、寺では全僧喪服で東にむかって哀を挙げ、大斎会が催された。一九六三年には、浙世一千二百年紀念の行事がおこなわれ、大明寺に紀念碑が立てられた。
趙樸初の筆である。十七年後、このたびの里帰りを迎える中国側の主任委員はおなじ、氏であった。