(巻二十四)働いてきた顔ばかり花見酒(山口耕太郎)

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2月8日土曜日

昨日の天気予報でもう開花予報を伝えていたが今年は早く、東京は3月18日ころらしい。
今年も花は咲くのか?
この発想は病気だと自分でも思う。自分でも“おかしい”と思っているうちはまだ大丈夫だろうと自分でも思う。
だが、この“自分で思う”が厄介な代物らしい。

とじ傘

葛飾野高校の裏門を通りかかると野球部の練習の声が響いていた。なぜ響くかというと隣接するURの高層住宅に反響するからである。それはさておき、高校生たちは春の大会、夏の大会があることを疑いはしないだろうし、日々の生活が続いていくと疑わないのだろう。練習するということはそういうことだ。

スポーツの楽しきニュース春立ちぬ(唐澤春城)

“今年も本当に桜は咲くのか?”と思うあたしはやはりおかしいのだ。

夕食の豆腐の味噌汁が旨かった。
昨日の吉楽のカツ丼についてきた味噌汁も旨かったな。
旨かったものを思い出そう。昼に食べたチョコチップパンも旨かった。

本

「死はなぜこわいか - 岸田秀」中公文庫 続ものぐさ精神分析 から

を読んでいる。

《 われわれが恐れているのは自己の終焉である。もちろん、生物学的な意味での死を恐れていることは確かであるが、それは、生命が自己の存在の基盤であるかぎりにおいてであって、それ以上のものではない。たとえば、ある時点で植物人間になり、それから数年後に死ぬとした場合、われわれが恐れるのは、明らかに植物人間になる時点であろう。また、人間は自分の信じているある価値、すなわち自己の存在がかかっているある価値を守るために生命を投げ出すこともあるのだから、生命よりは自己の方がより重要であり、その喪失がより恐ろしいのである。たしかにそういう人間はまれであるが、それは、自己の存在を構成している全体のなかで、ある価値の占める部分が、自分の生命の占める部分より大きい人間がまれであり、たいていの人間は自分の生命を自己の存在のもっとも重要な部分としているからに過ぎない。
したがって、自己というものをもたなかったとすれば、死の恐怖はあり得ないであろう。その意味において、生物学的生命そのものを生きている動物には死の恐怖はないと考えられる。》

人間は面白いかと冬の猫(矢島渚男)

美味しいチョコチップパンをいただき心地よい散歩いたしました。感謝します。
恐怖を感じることなく、自己のない死をお願いします。

即死ゆえ苦痛なかりし人と言ふ
死にしことなき者はかく言ふ(高野公彦)