「俳人子規の死 - 野村胡堂」中公文庫 胡堂百話 から

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俳人子規の死 - 野村胡堂」中公文庫 胡堂百話 から

尾崎紅葉正岡子規は、共に葬式の模様を覚えている。
紅葉の場合は、鼻眼鏡の石橋思案が、弔辞を読んだ姿だけが妙に印象に残っているが、正岡子規の死んだ時は本当に泣きたい気持で、駆けつけたものである。
盛岡の中学では杜陵吟社と称して行脚までやったり、一高に入ってからは、俳句会の幹事も勤めたほどだから、私の俳句熱も、生涯で最高潮の頃だったのだろう。
根岸庵へ駆けつけると、世話人の手が少なかったのか、私のような学生までが、受付係りを仰せつかった。見知り越しの三、四人と一緒に、玄関に立っていると、新婚間もない久保猪之吉博士が、織江夫人と並んで、清らかな姿を見せたのが印象的だった。
谷中の大覚寺への葬列は、秋の陽の下を、俳人、文壇人の総ざらいであった。柩を埋めて、その上に置いた銅板に「子規居士」と鋳抜いた素朴な墓碑銘が、今もありありと眼の底に浮かぶ。
私は、子規の筆蹟を、手に入る限り集めたが、珍しいのは、夏目漱石から、子規にあてた手紙がある。
子規が大学がいやになって、大宮市の宿屋で、ふてくさっているのに、漱石が心配して出したものだ。教授たちに話をつけて、九月に追試験を受けられるようにしたから、是非帰って来いとすすめたものだ。
それにもかかわらず、子規は中退してしまったが、同じく大学を半途でやめた私は、この手紙が身につまされてならぬのだ。辰野博士にこの話をしたら、
「それはおもしろい。子々孫々に伝えて、家宝にしろ」
と、いってくれた。
子規は、まあ、これくらいにして、田山花袋に逢ったのは、それより大分、のちである。出世作「蒲団」を書いたのが、明治四十年であるから、すでに文名嘖々[さくさく]たるものがあるのに、代々木山谷の家を訪ねるのに、花袋では分らず、本名の田山録弥さんときいて、やっと分った。作家に対する世間の関心が、今とはよほど違っていたのだ。
「あぐらにしましょう。あなたもどうぞ」
着物の裾をぐいと引いて、たくましい足をかかえこむ。そうして、得意のイギリス文学罵倒がはじまる。
「ショウは、皮肉すぎますよ。オスカー・ワイルドも評判ほどでない。イプセンは、テーマに振り回されて冷たすぎる。大体、西洋には、大したやつはいませんが、中でも、イギリスは気に食わないですよ」
これは、花袋の自信力の現われでもあるが、一つには、自然主義を契機とする日本文学の勃興期で、すべての作家の胸の中に、欧米文学なにするものぞの覇気がみなぎっていたのであろう。
「我国の文学界が行きつまったというけれど、そんなことがあるものですか。これから若い人がうんと出て、盛んに競走して行けば、ドイツも、フランスもあんなものはあなた.....」
言っていることは勇ましいが、口調はすこぶる愛嬌があって赤ン坊のように、たどたどしい。前歯が欠けてるせいであろう。
そうして、言葉の一区切りごとに、足首をぐいと、かかえこんであぐらを組み直す。肥りすぎているせいかと思ったが、あとで聞くと、当時の花袋は、長いこと、脚気[かつけ]に苦しんでいたのだった。