「「安楽死」夢想(抜き書き) - 新藤兼人」新潮文庫 ボケ老人の孤独な散歩 から

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「「安楽死」夢想(抜き書き) - 新藤兼人新潮文庫 ボケ老人の孤独な散歩 から

シナリオライター八住利雄氏が五月二十三日亡くなった。八十九歳だった。亡くなる数日まえ胸の痛みをうったえて近くの病院へはいった。家は成城である。わたしは二十三日の朝、危篤という連絡を受けて駆けつけた。すでにシナリオ作家協会の人たちが数人集まっていた。二人相部屋の病室で、八住さんはベッドで酸素吸入を受けていた。
枕許には医師も看護婦も見えず(モニタールームで見守っているはず)、八住さんは静かに寝入っているふうだった。そのおだやかな表情はあと二、三時間で亡くなる人にはとても見えなかった。
わたしたちは待合室で待機した。新築の大病院はまるでホテルのようだ。広い待合室にはいく組かの面会者がいて談笑で賑わっていた。大型テレビがあって子どもたちがはしゃいでいる。死を待つ八住さんと、待機しているわたしたちの間には明らかに断層があって、つながりに乏しかった。こういえのもいいなあ、と思った。
シナリオではよく、死の枕辺に駆けつける関係者の涙のシーンを書く。八住さんも何べんか書いたはずだが、いま八住さんの臨終は、そんなじめじめしたものではない。からっとよく乾いている。
このなんとも爽やかな雰囲気は、八住さんの人柄によるものだろう。戦後凄まじい勢いでシナリオを書きまくり、まるで機械のように完成日を正確に守り、見事に内容を掌握して、すぐ撮影にかかれるシナリオを書きに書いた。
十数年まえ、ぷつりとシナリオを書くのをやめ、自ら元シナリオライターと名乗ってシナリオ作家協会の理事長をつとめ、日中シナリオシンポジウムなとに尽された。まことに理想的な老年を過されたといっていい。
たおれて病院へ運ばれるとき、ああ、つまんねえ、と呟かれたそうだが、何がどんなにつまらなかったのが。
 
二日のちの五月二十五日、わたしの身辺にもある出来事が起きた。
『流れる』という芝居の最中に山田五十鈴さんが倒れた。大阪の上六の近鉄劇場での出来事である。東京にいるわたしがなぜそれを知っているかというと、妻である乙羽信子がこれに出演しているからだ。付人から連絡があった。
『流れる』は三月四月と東京芸術座でやって五月は大阪となった。三カ月ぶっ通しではお疲れだろうと思うが、こんなことは芝居の世界では常識である。幸田文の原作を平岩弓枝が脚色、戌井[いぬい]市郎演出で、主なる出演者は山田五十鈴杉村春子乙羽信子である。杉村春子山田五十鈴の顔合せというのが売物。杉村春子さんは八十いくつ、山田五十鈴さんは七十の半ば、乙羽信子は六十半ば、ときては合計ざっと二百二十五、六歳である。
芸者の世界で華やいだ舞台がつづき、動きは多いし、セリフはたんまりある、これをまあ二百二十五、六歳が三カ月もやってのけるのだからバケモノの世界である。
大阪での五月二十五日の夜、大詰近くなって山田五十鈴杉村春子と、杉村のむかしの旦那の息子の芝居になる。杉村の芸者染香がむかし世話になった旦那に手紙を出して無心をする。むかしの旦那は半身不随のボケ老人になっていて、その息子が父に代って五十万を送ってくれ、さらに残りの五十万を持ってきてくれる。しかしそのとき染香には蔦吉の山田が用立ててくれていて五十万は必要なくなっている、という三人の芝居。
で、染香が「蔦ちゃんが、この家、売ったお金の中から用立ててくれたのよ。だからもういいの」息子が「ほんとうですか」そこで山田のセリフ「本当よ、染香ちゃんは蔦の家には本当によくしてくれたんだから、この家売るときは、そのくらいことはしてあげるつもりでだったのだから.....」と言うのだが、「本当よ、染香ちゃんは」と言ったきり黙っている、見れば顔が能面のようだ。杉村さんがセリフのようにとりつくろって「蔦ちゃん、どうしたのよ」と促したが、「本当よ」と言ってあとが出てこない。
乙羽は出番を待って袖から見ていて、すぐに異変に気がついた。杉村さんが「蔦ちゃん、しっかりしてよ」と言ったが、山田さんは何も言わない。急遽暗転幕を下ろして、一同が駆け寄る。山田さんはうわ言のように「やります、大丈夫、やるわ」と言っている。
そこで幕を再びあげて、続行しようとしたが、「本当よ、染香ちゃん」と言ったきり次が出てこない。杉村さんが決断して、幕を下ろした。観客席に案外動揺がない。それほど舞台では沈着なことが行われた。
山田さんを楽屋に運んで寝かせ、観客には事情を説明した。観客のなかに杉村さんのファンがいた。この夫人は『流れる』を見るのは三回目という熱心な杉村ファンで夫は医者だった。その人が楽屋へ駆けつけ、乙羽が持っていた血圧計で計ると二〇〇という数字を越した。山田さんはもうものが言えない。
救急車が呼ばれ、山田五十鈴は「すみません、すみません」と口を動かしながら近くの日赤病院へ運ばれた。軽い脳溢血であった。
その夜十時ごろ、ホテルの乙羽の部屋に電話がかかってきた。十階ふ上ってきてくれという。乙羽は寝るところだった。十階の部屋には興行関係者と平岩弓枝がいた。山田の代役をやってくれと言われて乙羽はびっくり。明日一日休んで稽古をし、あさってからやってくれとのこと。平岩さんも傍らから是非とも助けてくれと。芝居は一日一千万の興行、あと昼夜で五回残っているから五千万の穴があくと必死の懇望。やらないわけにはいかなかったと乙羽はいう。舞台は助けあい、倒れたひとを見捨てるわけにはいかない。
翌二十六日は徹夜で稽古をやった。三百五十五のセリフがある。これを一日であたまへたたきこまなきゃならない。眠ろうと思っても眠れない。一睡もしないで二十七日の舞台へあがった。杉村さんはじめ裏方一同の熱い視線が集まった。観客は事情を知っていた。宝塚出身の乙羽には大阪のファンが多い。同級生や先輩後輩が心配して駆けつけた。
乙羽が一言喋るごとに観客席から熱い吐息がもれた。一くぎりごとに拍手がわいた。しっかりやれという拍手だ。相手役の杉村春子がリードした。舞台と観客が一体となって芝居を盛りあげた。乙羽はこういう熱気ははじめてだという。五回の公演が無事すんだ。元気な三老人の物語りである。山田さんは無事回復し、杉村さんはもう次の芝居の稽古をしている。