(巻二十四)合席も淋しき人かおでん酒(原田青児)

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2月11日火曜日

近所の千円の床屋へ行ってみた。定期券があった頃は駅構内のQBで刈ってもらっていたが、入場券を買ってまで行くところでもない。近所の床屋で安いところを探していたらこの店があった。
10時開店なので少し前に行ってみたが、すでにお一人が閉まっているシャッターの前で待っていた。
10時過ぎに店が開き入ったが、すぐに三人目が入ってきた。三人とも六十代後半のご同輩である。
カットだけの店だから店内もシンプルで水回りはない。理髪の椅子は一脚だけである。待ち合いの椅子は四脚で一応雑誌やマンガも用意してあった。
理容師さんは五十代後半の小太りのおばさんで、ハサミの輪にかかる指が太いなあとの印象が残った。
あたしよりかなり髪の量の多い前の客のカットが10時5分から始まり20分に終った。
さて、椅子に座ったが鏡に対する角度が若干ずれていて顔が少々そっぽを向いている。やや気になったが、そんなことにはお構いなくハサミが入り始め、やはり15分ほどで終った。
三人目までは客があったが四人目は来たらず。

帰ってきて細君に出来栄えを訊いたが、「同じじゃない。」とのことである。床屋に行くのは“みすぼらしさ”、“憐れさ”、を隠すためで、そのために四千円の床屋に行く気はなれない。近くて安くて早くてのこの床屋のお世話になることにしよう。

此翁白頭真に憐むべし
これ昔、紅顔の美少年(劉希夷)

*劉が間違っているかもしれません。

昼のニュースで野村克也氏の御逝去を知った。八十四歳とのことであります。

 

《 「私のあいさつ(89・11) - 野村克也」文春文庫 巻頭随筆6 から

去る九月十三日、野球殿堂入りを許された私のために、大勢の方が集まって下さった。その席上であいさつを求められ、思いがけずこれまでの野球人生を振り返ることになった。

振り返ると、三十六年前は南海のテストに受かるとも思えなかった私が、ここに立っていること自体が不思議でなりません。南海の練習のすごさや金田投手の速球を見ては人生をまちがったな、と思っていたのに、人生とはわからないものです。
現役の二十七年間にはいろんな節目がありましたが、第一関門は一年目のシーズンオフに会社から「君と来年契約する意思はない」と言われたときでした。二軍のレギュラーも取れずに終わることがたまらず、最後には同情してもらうしないな、と三つのときに支那事変で父を亡くし、母に苦労をかけたことを語りましたら、「もう一年、面倒みたる」。
そんなレベルの選手で、一軍に上がれるとは思わなかったのに三年目でチャンスをつかみ、四年目にレギュラーを取った。いける、と思ったものの、八年目にして八番バッター定着、三振王独走.....。限界に打ちのめされたのが第二関門で、二十五歳ぐらいでした。
体力と気力を使い果たし、残った頭でピッチャーが投げる前から球種がわかる方法を考えました。毎日スコアブックを持って帰り、データを出してみたり、ピッチャーを観察してクセを発見したりして、ついに八十パーセントはわかって打てるようになった。
技術は二流ですから、オールスターや日本シリーズで打てるわけがありません。データもなければクセも知らない。「大試合に弱い野村」とはそういうことです。ホームラン王の面子にかけて何とかしようと、「直球、カーブ、よしわかった」と打席に入ると、オールスター戦だから、ピッチャーが変わってしまう。
負けた、負けたと思ううちに監督という座についた。監督は大学出の人ばかりで、まさか自分に声がかかるとは思わなかった。七年つとめましたが、今日司会をしている江本、問題児江夏、異端児門田の三悪人によって、監督業がどんなものか勉強ができました。
弱い弱い南海を何とか優勝に導きたいと一生懸命やって、江夏が復帰したから来年は狙える、と思ったら、ここにおります女房のおかげで退任という目にあいました。
これでいよいよ引退だな、と思いましたが金田監督の「捕手をやらないか、お前が欲しい」という一言で、四十二歳で一年間、ロッテにお世話になりました。最後の関門は体力との戦いでした。忘れられないのは、仙台での阪急戦で、今井雄太郎投手に九回二死まで完全試合をやられました。ベンチで見ていて(ここはやはり経験豊かな俺が行こう。今日はシュートが切れているから、狙っていこう)と準備していましたら、「ピンチヒッター、榊」
もう辞めるべきだ、と思うところへ西武の堤オーナーから「君の専門知識を、うちの若い連中に伝授してくれ」と有難い言葉がかかりました。迷って女房に言うと「あんた、野球しか能がないんじゃないの。やったら」というので、ライオンズのお世話になりました。
ある試合で一点負けていて一死一・三塁で私に打順が回ってきました。(よし、外野フライぐらいは。最低の仕事はしなきゃ)と意気ごんで打席へ行こうとしたら「ピンチヒッター、鈴木」。ここで引退を決意しました。
このたび、ベテラン記者の投票で殿堂入りが決まったとの吉報が舞い込んできましたが、自分はプロ野球の中で貢献したなどととんでもない、と思っていました。記者に「非常に有難いが、打撃面が評価されたのか、キャッチャーとして評価されたのか。どっちなんですか」と聞くと、「どっちでもいいじゃないですか」と言う。
私が入団したころ、キャッチャーは壁といわれ、身体が頑丈で肩さえよければよかった。ホームランを打たれ、カーブのサインを出したらどうなったか、と何回も経験して、キャッチャーは大変な仕事だ、と面白くなりました。
データを集め、相手監督の作戦傾向を調べて前の晩から想像上の野球をして、実戦の野球をやって、先発したピッチャーが完投完封すると、ヒーローインタビューに出ているのはピッチャーなんです。江本あたりのへぼピッチャーを頭を悩ませてリードして、インタビューを受けるのは江本です。プロテクターを外し、レガースを外しながら「何を抜かしてるんや。サイン出した俺が偉いんや」とつぶやく。私がこんな暗い人間になったのは、そういう次第なんです。》