「ギャンブラー英才教育 - 浅田次郎」ちくま文庫 わかっちゃいるけどギャンブル! から

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「ギャンブラー英才教育 - 浅田次郎ちくま文庫 わかっちゃいるけどギャンブル! から

親子代々女好きの家系、というものはある。酒好きの家系というもの、これは歴然とある。ではバクチ好きの家系というものはどうかというと、これはあるようで実はほとんどない。
本当のバクチ好きはたいてい一代で破滅してしまうので、そもそも家系というものがありえない。また何とか家庭を維持しても、わが子には「バクチだけはやるな」と厳命し、妙に堅実な子供に恵まれたりする。
ところが、私の家系は稀有の例であった。祖父という人は自称「筋金入りの博徒」であったが、すさまじいバクチ好きであった。博徒とは、バクチを開帳してテラ銭を上げる稼業のことであるから、バクチ好きでは務まらない。だから元は「筋金入りの博徒」であったかどうかは知らぬが、私の物心ついたころには「筋金入りのバクチ好き」であった。
ともかく祖父は七十を過ぎるまで一年の三百日ぐらいを競馬競輪に通いつめ、夜は毎日パチンコに通っていた。
戦績はどうであったのか、そんな暮らしをしながら天寿を全うしたところを見ると、はたで言うほどの放蕩老人ではなく、むしろ名人の部類であったのかもしれない。こうした家の場合、ふつうその子。つまり私の父親は堅物になるはずなのであるが、これがまた祖父に輪をかけたバクチ好きであった。
時代背景というものもあるだろう。大正末年に生れた父は、幼い日々を金融恐慌の不況下で育ち、長じては兵役に取られ、九死に一生を得て復員した故郷は焼野原であった。おそらく堅実さなどというものの通用しない時代を生き抜いてきたのだろうと思う。
祖父はいわゆる「宵ごしの銭は持たぬ」タイプの江戸ッ子であったが、父は極めて経済感覚の鋭い人であった。バクチを打つかたわら事業を営み、けっこう財産も作った。もちろんバクチも名人であった。
父は私に、バクチを打つなと言ったことはない。ただ、バクチについての多くの金言を遺した。ふつうの親なら、人生がどうのとか学問がどうのとか、くどくど口にする説教は何ひとつ言わず、教えたことといえばバクチに勝つ方法ばかりであった。
一種のギャンブラー英才教育とでも言うべきか。
思い出すままに、そのいくつかを挙げてみる。
〈米を買う金もバクチを打つ金も、同じ金である〉
まさに金言。場の内と外とで金の値打ちが変わるようでは、決して勝てはしないということだ。
〈バクチは努力。運だと思うのなら宝クジで辛抱しろ〉
これに付け加えて、「博才というものがあるのなら、それは努力のできる才能のことだ」とも言っていた。
〈あれこれやるぼど簡単ではないぞ〉
競馬一辺倒であった私が、「今度競輪を教えてくれ」と言ったとき、にべもなくこう答えたものだ。父は終生、競輪しかならなかった。
〈酒と女はご法度〉
父は酒も飲み、女道楽もしたが、競輪場で酒を飲んだり、女を同伴したことはなかったそうだ。
〈バクチは体力。健康な体が健康な状態でなければ勝てない〉
つまりバクチ打ちたるもの、常に体力の維持に心がけ、過食や寝不足の状態で勝負に臨んではならないのである。
〈すべてのバクチの勝負を左右するのは、テラである〉
これには多言を要すまい。深い説明は避けよう。
と、まあ思い出せばきりがないのだが、こうした有り難い親の訓えをきちんと守って、私もかれこれ四半世紀、ギャンブルに血道を上げてきた。やはり父の訓えにより、正確な収支明細と経費の明細をメモしているが、たしかに年間を通じてマイナストータルということがない。
そう、もうひとつ肝心な訓えがあった。
〈バクチは道楽だ。仕事にするな〉
私の仕事は小説家である。幼いころからそうと決めていた道なのだが、初めて原稿が活字になったのは三十五の歳で、一冊の本になったのは三十九だった。一円にもならなかった長い間、父は会うたびごとにこれを言った。
父は十年前に神田の実家を引き払い、伊東の別荘に住んで悠々自適の余生を送った。読者の多くはその理由がおわかりになるであろう。地元の伊東競輪をはじめ、小田原、平塚、少し足を延ばせば静岡と、競輪三昧にはまことに願ってもないロケーションである。
一年前に古稀の祝いをして以来、連絡が途絶えた。何か気に入らぬことでもしたかな、と考えても思い当たるふしはなかった。
一冊目の本が出版されて以来、まるで今までのくすぶりようなど嘘のように、私の仕事は忙しくなった。たぶんそれを気遣って連絡もしてこないのだろうと思った。父は新しい小説が刊行されるたびに、競輪仲間に自慢をしたそうである。連載小説が掲載された週刊誌の発売日には、宇佐美の駅まで行ってキヨスクの店員にさえ見せびらかしたという。
父をモデルにした小説「地下鉄[メトロ]に乗って」が、この春の吉川英治文学新人賞を受賞した。
その吉報を待つようにして、父は死んだ。肝臓癌が判明したのはちょうど一年前のことで、本人も告知を受けていたそうである。要するに父の厳命により、勝負どころにさしかかっている私に、家族は誰も病状を伝えなかったのであった。
〈バクチは何よりも面白い。だが、他にやらなければならないことは、いくらでもある〉
父の金言のひとつが、また甦る。
後に母と妹の口から聞いた最期の様子はこのようなものであった。
癌は老人性のものであるから、五年の余命は保証されていた。検査を受けるために東京のマンションに戻り、少々風邪ぎみであったのが京王閣競輪に出かけた。それが命取りになった。風邪をこじらせて肺炎を起こしたのである。
呼吸不全になって救急車で順天堂に担ぎこまれ、一進一退の病状をひと月ばかりもくり返した。その間も、新人賞の候補に上っていた私には連絡を禁じていた。
訃報が届いたのは、授賞式の翌々日である。全く予想だにしないことであった。待っていたとしか思えなかった。
しかも、ほとんど同時に、この原稿の依頼がきた。ふしぎなめぐり合わせである。
父は競輪の草創期からの、最も熱心なファンであった。おそらくその全てを見てきたにちがいない。だが私は、ついぞ父と競輪場に行ったことはなかった。つまり、一世一代のギャンブラーの、バクチを打つ姿をただの一度も見たことがなかった。
最期の言葉がふるっている。意識も定かではないのに、「3-5、一万。3-6、五千買ってこい」、と妹に命じたそうである。しばらくして、「どうだった」と訊くので、「3-5で来たわよ。七百円ついた」、と妹が答えると、「そうかあ、あんがいつかなかったなあ。みんなうめえなあ」、と言った。
幸福な人生であったと思う。生涯バクチを打ち続け、しかも終りの十年は住いを引越してまで競輪に没頭した父は、やはり名人中の名人であったのだろう。戦績はどうあれ、人生の結末からすれば大勝利にちがいない。
訓えを守れば、きっと私も破滅せずにすむと思う。しかしひとつだけ禁忌をおかして、毎年の命日には伊東競輪場のスタンドに立ってみようかと思っている。