1/2「あきらめる - 水野肇」中公文庫 夫と妻のための死生学 から

f:id:nprtheeconomistworld:20200220084254j:plain


1/2「あきらめる - 水野肇」中公文庫 夫と妻のための死生学 から

このキュープラー・ロスの五段階に分けた考え方を「ロスの五段階説」とアメリカで呼んでいるが、多くの支持者がある。現に宗教学者だった岸本英夫さんが、皮膚ガン(メラノーム)に冒されて亡くなった記録『死を見つめる心』(講談社)のなかでも苦悩する心のゆれが微妙にえがかれているが、実際にこの五段階を経過して安心立命の境地に達している。
ただ、少し「ないものねだり」のようなことをいうといわれるかもしれないが、私たちは“死に病”に冒されてから、はじめて「死」を考える。そして五段階を経由して、最後に“あきらめ”の心境に近いものになって死んでいく。これを、もう少し、早い時期から考えておくということができないものだろうか。「人間には欲望があるから、そんなことはできない」と否定する人も多いだろう。たしかに、そのようにも思える。しかし「人間はいつかは死ぬ」というのも数少ない真実のひとつである。だとすれば「やがて死ぬのだ」という認識を持つことは、必要なのではないだろうか。そこを出発点として人生を生きていくのと、そうでない生き方とはまったくちがうのではないだろうか。人生はマラソンに似ているといわれる。四二・一九五キロを走り切って、はじめて優勝者が決まる壮絶なドラマがマラソンである。ただ走ればいいというのでは、タイムはおろか、完走もできない。配分も必要だ。五キロを何分で走るかを綿密に計算し、そのとおり、持続して走らねばならない。
ただ、人生とマラソンの違いは、マラソンはゴールの向こうに栄光があるが、人生のゴールの向こうには「死」しかない。ゴールに入ったとたんに“一巻の終わり”になり、その人の社会的評価(生きたという事実)が決まるのである。しかし、どちらも苦難の道であることはよく似ている。人生の中での喜怒哀楽は、マラソンでいえば、途中計時やラップ・タイムのようなものであろう。私たちにとって、何よりも大切で必要なことは「人間は必ず死ぬ」ということではないだろうか。こういうと、いかにも敗北主義者のように思う人もあるかもしれないが、これは当然のことである。人間は必ず死ぬという認識を持つことと精一杯生きるということとは、なんの矛盾もない。むしろいつかは死ぬということが、人生を精一杯生きることにつながるのではないだろうか。人間に死というものがなければ、おそらく芸術のようなものは誕生しないだろう
生まれた瞬間からそういう考え方を持てといってもそれは無理だろう。しかし、青年期から、つとめて死生観を持とうと努力している人は立派な人である。主観的な話で恐縮だが、私が五十数年のささやかな人生を歩いてきて、立派な人だと感心する人物は、必ず、確固とした死生観や人生観を持った人たちであった。いくら高名な学者でも、ずるがしこく、要領よく立ち回るような人は、あとで聞くと死にぎわのあわれな人が多い。
この死生観は人生経験によってもちがうようだ。若いときに戦争にかり出されて、いわゆる“死線を越える”ような死と直面した体験を持ち、多くの友人を失った人には、きっちりとした死生観を持った人が多い。よく会話をしついると「終戦後の人生は私にとって付けたしのようなものです」という人がいるが、こういう人に限って、付けたしどころか、立派な人生を歩いている人が多い。若いときに結核で死にかけて助かった人のなかにも、立派な死生観を持っている人が多い。これらの人々は「一度は生をあきらめた人」といえるのではないかと思う。こういう人たちと話をすると、私などは恥じ入るばかりである。
「あきらめる」というと、なにか後ろ向きで、悪いことのように思うひとが多いが、私はこれは誤りではないかと思う。あきらめるというのは、明らかに見る、つまり、よく見るというのが語源だそうで、よく見てみると「そうか」ということになるわけである。人生においてはあきらめることが必要になる場合も多い。出処進退などというものだと思う。人生は何でも前向きでありさえすればいいと思っている人も多いかもしれないが、私はそうではないように思う。試行錯誤やたゆまぬ努力をすることは当然人生では評価されるべきだと思うが、ときと場合によっては、あきらめることも人生ではないかと思う。