2/2「あきらめる - 水野肇」中公文庫 夫と妻のための死生学 から

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2/2「あきらめる - 水野肇」中公文庫 夫と妻のための死生学 から

少し医学的なことになって恐縮だが、人間と動物の最大のちがいは、人間の脳には「前頭葉」と呼ばれる部分が極度に発達しているのに、ほかの動物では、ほとんど発達していないということである。前頭葉は、さきにもちょっと触れたように、ものを考えたり、つくりだしたりする“創造の座”であって、コンピューターでは遠く及ばない働きである。ところで、この前頭葉は「前向き」の働きだけではなく、実は「抑止力」も大きな働きのひとつなのである。この前向きと抑止力のバランスが人間をつくっているといっても過言ではない。抑止力のなかには「あきらめ」も入っているのである。
人間は年をとると、気が長くなり、受け入れる気持の方が強くなってくる。これは抑止力がより強く働くようになるためだが、あるいは、死を許容するような気持に自然にさせているのかもしれない。脳の活力が低下してぼけてくるためだと思う人もいるかもしれないが、そういう病的なものではなく、一種のバランス感覚のようなものである。大会議の座長のような人は、いくら頭が切れても若い人ではうまくいかないのはそのためで、いつまでたっても自分の意見を主張することしかできない人が、人格円満とみられないのは、そのためである。抑止力を重視すべきである。
この「あきらめる」というのは、少し例が適切ではないかもしれないが、「夫婦」のようなものにも当てはまるように思われる。夫婦はよくできたもので、若いときにけんかばりしていた夫婦も、ともかく定年を迎えるころになると、わりと仲のいい夫婦になることが多い。(最近は定年退職時の夫の退職金をねらって、妻のほうから離婚を迫るケースもあるらしいが、これは絶望的である)。
これは、ひとことでいえば、夫も妻もお互いに「あきらめる」ためだろうと私は思う。夫のほうも、若いときにはバーでもてたりすると有頂天になったりするが、四十五歳ごろになると、自分がもてているように見えるのは、バックにある会社だったり、財布の中の聖徳太子がもてていることに気がつくものである。これに気づかないようでは、とても管理職などはつとまらない。一方、妻の方も、結婚してからたえず「この人と結婚してよかったのかしら。あのとき、別の見合いをした人のほうがよかったのではなかったかしら」とか思う。しかし、四十歳をすぎると、ここで別れても、何もやれることはないと思う。せいぜい、料理屋の“お運びさん”ぐらいにしかなれない。お運びさんというのは、料理屋の台所から座敷のふすまの前まで料理を運ぶのが仕事で、座敷の中に入るにしては、シワが多すぎるというわけである。それなら、いまの主人といっしょにいたら、厚生年金もでるし、定期預金もいくらかはある。このほうがいいわということになる。
まさに、“明らかに見た”その結果なのである。ここには抑止力も働いているわけである。だから六十歳をすぎて“火宅の人”などというのは、そうざらにはいないもので、きわめて例外的なケースなのである。もちろん、こういった不真面目な話だけではなく“子はカスガイ”といったような場面もあるだろうけれども、意のおもむくままには、行動しない。“不惑の年”とはよくいったものである。
夫婦ももっと年をとって六十五歳ぐらいになると、一日じゅう、二人で話をしている。よくあんなにも話をする内容があるなと思うが、そこはよくできている。老夫婦の場合、夫も妻も脳が適当に老化して、記憶力が低下し、同じ話を新しい話とお互いに思って何度もしているわけである。息子や息子の嫁がきいたら「もうこの話十回目だ」ということになる。夫婦というものはお宮の唐獅子のようなものである。向かい合って四十五年とか五十年とかいうのが多い。問題は向かい合っていることなのではなく、その間を誰が通り過ぎたのかということにあるのだろう。
少し不謹慎な話かもしれないが、あきらめるということには、元来こういう面もあるということをいいたかったのである。ついでにもうひとつ紹介しておくと、あらゆる統計をみても、独身者は妻帯者より寿命が短い。それだけではない。一定年齢以上生きていたい人は、必ず、現在の奥さんを大切にすることである。たとえ、その奥さんが二度目であっても、三度目であっても。それというのは、男性は六十歳をすぎて奥さんを亡くすと、その七〇パーセントぐらいの人は三年以内に死ぬことになっている。ただし、奥さんのほうは六十歳すぎて夫を失っても、寿命に関係なく延々と生きるということになっている。
これは、いかに男性というのが生物的に弱いかという見方もできるだろうが、年をとった男性が一人で生きていくのはたいへんだということでもある。“粗大ゴミ”だとまではいわないにしても、男性が妻を亡くして、なお生きていくというのは、心労が多い。夫婦はやはり、ワンセットでいるほうが、統計的に長く生きられるだけでなく、そのほうが、社会的にもリーズナブルなようである。手前勝手ないい方をすれば、妻を看取るのではなく、夫が妻に看取られるほうがいいようである。