「葛飾土産(冒頭) - 永井荷風」岩波文庫 荷風随筆集(上) から

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葛飾土産(冒頭) - 永井荷風岩波文庫 荷風随筆集(上) から

菅野[すがの]に移り住んでわたくしは早くも二度目の春に逢おうとしている。わたくしは今心待ちに梅の蕾が綻びるのを待っているのだ。
去年の春、初めて人家の庭、また農家の垣に梅花が咲いているのを見て喜んだのは、わたくしの身に取っては全く予想の外にあったが故である。戦災の後、東京からさして遠くもない市川の町の附近に、むかしの向嶋を思出させるような好風景の残っていたのを知ったのは、全く思い掛けない仕合せであった。
わたくしは近年市街と化した多摩川沿岸、または荒川沿岸の光景から推察して、江戸川東岸の郊外も、大方樹木は乱伐せられ、草は踏みにじられ、田や畠も兵器の製造場になったものとばかり思込んでいたのであるが、来て見ると、まだそれほどには荒らされていない処が残っていた。心して尋ね歩めばむかしのままなる日本固有の風景に接して、伝統的なる感興を催すことが出来ないでもない。
わたくは日々手籠[てかご]をさげて、殊に風の吹荒れた翌日などには松の茂った畠の畦道[あぜみち]を歩み、枯枝や松毬[まつかさ]を拾い集め、持ち帰って飯を炊[かし]ぐ薪[たきぎ]の代りにしている。また野菜を買いに八幡[やわた]から鬼越中山[おにごえなかやま]の辺まで出かけてゆく。それはいずこも松の並木の聳えている砂道で、下肥[しもごえ]を運ぶ農家の車に行き逢う外、殆ど人に出会うことはない。洋服をきたインテリ然たる人物に行逢うことなどは決してない。しかし人家はつづいている。人家の中には随分いかめしい門構えに、高くセメントの塀を囲らしたところもあるが、大方は生垣や竹垣を結んだ家が多いので、道行く人の目にも庭や畠に咲く花が一目に見わたされる。そして垣の根方や道のほとりには小笹や雑草が繁り放題に繁っていて、その中にはわたくしのかつて見たことのない雑草も少なくない。山牛蒡[やまごぼう]の葉と茎とその実との霜に染められた臙脂[えんじ]の色のうつくしさは、去年の秋わたくしの初めて見たものであった。野生の萩や撫子[なでしこ]の花も、心して歩けば松の茂った木陰の笹藪の中にも折々見ることができる。茅葺[かやぶき]の屋根はまだ随処に残っていて、住む人は井戸の水を汲んで米を磨[と]ぎ物を洗っている。半農半商ともいうべきそういう人々の庭には梅、桃、梨、柿、枇杷の如き果樹が立っている。
去年の春、わたくしは物買いに出た道すがら、偶然茅葺屋根の軒端[のきば]に梅の花の咲いていたのを見て、覚えず立ちどまり、花のみならず枝や幹の形をも眺めやったのである。東京の人が梅見という事を忘れなかったむかしの世のさまがつくづく思い返された故である。それは今にして思い返すと全く遠い昔の事である。明治の末、わたくしが西洋から帰って来た頃には梅花は既に世人の興を牽[ひ]くべき力がなかった。向嶋[むこうじま]の百花園[ひゃっかえん]などへ行っても梅は大方枯れていた。向嶋のみならず、新宿、角筈[つのはず]、池上[いけがみ]、小向井[こむかい]などにあった梅園も皆閉され、その中には瓦斯タンクになっていた処もあった。樹木にも定った年齢があるらしく、明治の末から大正にかけて、市中の神社仏閣の境内にあった梅も、大抵枯れ尽したまま、若木を栽培する処はなかった。梅花を見て春の来たのを喜ぶ習慣は年と共に都会の人から失われていたのである。
わたくしが梅花を見てよろこびを感ずる心持は殆ど江戸の俳句に言尽されている。今更ここに其角[きかく]嵐雪[らんせつ]の句を列記して説明するにも及ばぬであろう。わたくしは梅花を見る時、林をなしたひろい眺めよりも、むしろ農家の井戸や垣のほとりに、他の樹木の間から一株二株はなればなれに立っている樹の姿と、その花の点々として咲きかけたのを喜ぶのである。いわゆる竹外の一枝斜なる姿を喜び見るのである。
梅花を見て興を催すには漢文と和歌俳句との素養が必要になって来る。されば現代ね人が過去の東洋文学を顧[かえりみ]ぬようになるに従って梅花の閑却されるのは当然の事であろう。ただ[難漢字]に梅花のみではない。現代の日本人は祖国に生ずる草木の凡てに対して、過去の日本人が持っていたほどの興味を持たないようになった。わたくしは政治もしくは商工業に従事する人の趣味については暫く擱[お]いて言わぬであろう。画家文士の如き芸術に従事する人たちが明治の末頃から、祖国の花鳥草木に対して著しく無関心になって来たことをむしろ不思議となしている。文士が雅号を用いることを好まなくなったのもまた明治大正の交[こう]から始った事である。偶然の現象であるのかも知れないが、考え方によっては全然関係ないとも言われまい。
戦争中にも銀座千疋屋[せんびきや]の店頭には時節に従って花のある盆栽がならべられた。また年末には夜店に梅の鉢物が並べられ、市中諸処の縁日にも必ず植木屋が出ていた。これを見て或人はわたしの説を駁[ばく]して、現代の人が祖国の花木に対して冷淡になっているはずはないと言うかも知れない。しかしわたくしの見る処では、これは前の時代の風習の残影に過ぎない。人の家の床の間に画幅[がふく]の掛けられているのを見て、直にその家の主人を以て美術の鑑賞家となす事の当らざるに似ているであろう。世にはまた色紙短冊のたぐいに揮毫[きごう]を求める好事家があるが、その人たちが悉[ことごと]く書画を愛するものとは言われない。
祖国の自然がその国に生れた人たちから飽かれるようになるのも、これを要するに、運命の為すところだと見ねばなるまい。わたしくは何物にも命数があると思っている。植物の中で最も樹齢の長いものと思われている松柏さえ時が来ればおのずと枯死して行くではないか。一国の伝統にして戦争によって終局を告げたものも、仮名づかいの変化の如きを初めとして、その例を挙げたら二、三に止まらぬであろう。

昭和廿二年二月