「庶民の暮し - 村上元三」中公文庫 江戸雑記帳 から

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「庶民の暮し - 村上元三」中文庫 江戸雑記帳 から

「大家[おおや]といえば親も同然、店子[たなこ]といえば子も同然」
と落語の中によく出る言葉は、現代人にはぴんとこないだろうが、江戸のころの大家は、ずいぶん実権を持っている存在であった。
江戸の初期、天正年間から樽屋、奈良屋、喜多村という商人の三人が世襲の町年寄に任ぜられ、町奉行の参与の形で町政を司ることになった。この町年寄の下に、江戸各町の名主があり、それぞれ町内には五人組がいて、町政に責任を持っていた。これを、町内役人という。
よく、町役人と町内役人を間違える人が多い。町役人というのは、南北両町奉行に属し、江戸市中の治安に当っていた与力と同心のことで、日本橋八丁堀に組屋敷、組長屋があったところから、一口に八丁堀役人とも呼ばれる。
大家、あるいは家主[いえぬし]にも、ぴんからきりまである。長屋を幾棟も持って、順調に店賃[たなちん]が入ってくる大家ならいいが、落語などに出てくる大家は大てい貧乏長屋で、店賃のとどこおりも多い。店賃を催促しても、
「店賃なんてものは、まだ貰ったことがねえ」
などとふてくされる店子が多いのでは、大家もたまったものではない。
しかし、大家というのは店子の行状すべてに責任を持たされている。新しく長屋を借りた店子の名や職、年など、すべて町名主へ届けて、人別帳[にんべつちよう]に書き入れてもらう。それが町奉行の手元へ行くので、町奉行は居ながらに江戸の町民の身元調査が出来ることになる。
無職者が長屋を借りるというのは、なかなか難しいし、よほど確かな身元引受人が必要であった。
大家の中には、地主を兼ねた者もいるが、大ていは地主に地代を払っていた。中には地代から給金だけをもらって、店賃は地主に渡すという、現代なら管理人のような大家もいた。地借の大家も、店賃の幾割かを地主に納めるのが普通であった。大家は交代で町内の自身番に詰める、という義務があるかわり、店賃のほか、肥代、樽代などの副収入がある。
だが、だれでも大家になれるというわけではない。大家の株は、安いときで三十両、場所によって高いのは二百両もした。
店賃は、表通りに面した家で二分から一分、裏長屋のいわゆる九尺二間、二部屋で五百文から六百文が文化文政ごろの相場であった。その時代で、親子三人ぐらし、通いの大工で月に一両もの収入があれば、ちゃんと近所づき合いも欠かさず、店賃もとどこおらせずに暮して行けた。
長屋は共同井戸で、掘抜き井戸もあれば、水道の水を使えるところもあった。便所も共同で、総雪隠[そうせつちん]という。だが、高台で水の出の悪い町へは、水屋が水を売りにきた。
雪隠にたまったものは、それぞれ縄張があって、江戸近在の百姓が大八車、あるいは牛や馬に曳かせた車に肥桶[こえたご]を乗せ、くみ取りにやってくる。そして、ちゃんと一桶[か]いくらで大家へ肥代を払い、土産に時節の野菜などを持ってくる。江戸から海を越して、向う地と呼ばれる上総、安房あたりからは、下肥船[しもごえぶね]がやってきて、やはり縄張の決まっている町内のくみ取りをする。村へ帰って、また一桶いくらで百姓へ売る。
だから大家は、店子から店賃を出させ、店子が身体から出したものまで、金にしていたことになる。長屋の空樽は、みんな大家が売った。
文化文政ごろの湯銭は、おとな八文から十文、ぬかが三文から四文へ、子供は四文から五文に値あがりしていた。関西では風呂と言い、桜湯とか松の湯とか名をつけるが、江戸の湯屋は一つの町に二軒か三軒あり、町名を上につける。江戸市中に、湯屋は六百軒ほどあった。ゆと大きく染めたのれんをくぐると、土間があり、高い番台には湯屋の亭主か女房が坐って、客から湯銭を受取る。流しの客があると、番台から拍子木を打って、裏手の釜場にいる番頭に知らせる。
番台に坐っているのを番頭、として扱っているテレビドラマを見たが、湯屋に限って、あれは番頭とは呼ばない。商家と違って湯屋の番頭は、下帯一つで、釜場で湯をわかし、客に岡湯[おかゆ]をくんでやったり、背中を流したりする奉公人のことを言う。男湯には二階へあがる段梯子があり、上には月ぎめの客のため、それぞれの店の商標を書いた衣裳戸棚がならんでいる。茶や菓子を出す用意がしてあり、将棋盤や碁盤がおいてあって、一種の町内集会所の役目を果していた。侍客も二階へあがら、刀を預けてから、湯に入る。
流し場は広く、ざくろ口というのがあって、そこをくぐって客は湯舟に入る。だから、湯舟の中は暗い。ざくろ口というのは、鏡を鋳るにはざくろの実を用いるので、鏡鋳る、屈み入るから、というのが語源だという。
ざくろ口の上には、必らず絵が描いてある。大坂では破風形だが、江戸では鳥居の形をして、花鳥や波に千鳥が描いてあった。
町内の湯屋のほか、男の髪結床も一種の集会所で、大人が頭を結って顔を剃ると、三十二文だが、馴染の客は祝儀も置く。向両国の盛り場には、大道に床屋がならんでいた。床几を置いただけの並び床で、このほうは十六文、と値段も安い。
ほかに、廻り髪結というのもあるが、これは旗本屋敷、大店などを得意先にしていた。女専門の髪結床も、やはり女の集会所のようになっていたが、天保年間には禁止された。贅沢を咎めたと同じ趣旨で、自分の髪ぐらいは自分で結え、という老中水野越前守の考えであろう。
江戸の町でも、神田橋本町には、願人坊主、歌比丘尼などが住んでいた。願人とは、むかしは俗人の代願をやっていた僧侶のことだが、江戸も中期以後になると、乞食同然の存在になってしまった。
田舎の貧乏寺で、まだ釣鐘がない坊さんが頼みにくると、橋本町の願人坊主は、何々の国何々郡何々村何々寺釣鐘建立、と書いた幟を立て、善男善女を連れて市中を歩き、銭をもらう。中には悪い奴がいて、善男善女の立前、つまり日当も払わず、逃げてしまう願人坊主もいる。歌舞伎でやる「法界坊」が、それだと思えばいい。
比丘尼のほうは、お経のかわりに当時の流行歌[はやりうた]をうたいながら、市中を歩いて銭をもらっていた尼で、夜は売春をやる。
比丘尼買い、抹香くささに味があり」
という川柳があるほどで、物好きがずいぶん通って、はやったものらしい。もちろん、岡場所という官許以外の売春宿と同様、何べんも取りつぶされたが、溝[どぶ]にわくぼうふらのように、いつとはなしに、また現われた。
願人坊主、勧進比丘尼などは、乞食とはいえないが、江戸のころの乞食は、ただ道に坐って、前にざるを置いて頭をさげているようなのは、仲間から軽蔑された。老婆の物乞いでも、三味線を弾いて唄をうたったし、乞食はたいてい芸を持っていた。
なにも出来ないのは二人で組になり、一人は全身に鍋墨を塗って、四つん這いになって歩く。一人はあとから、割竹で相棒の尻を叩いて、どなる。
「ええ、丹波の篠山[ささやま]でとれました荒熊でござい、泣かしてごらんに入れます」
四つん這いのほうは、うおーっ、唸り声を立てる。
芸を見せて銭を貰うのだ、という妙な自尊心のようなものが、江戸のころの物乞いにもあったのだろう。
いまのテレビや映画などを観ると、乞食が道ばたに坐って、前に面桶[めんつう]を置き、黙ってお辞儀をしついるが、あれは江戸のころの乞食の姿ではない。むかしの乞食のために、弁明をしておきたい。