「過去の意味-1 - 加藤秀俊」文春文庫 生きがいの周辺 から

f:id:nprtheeconomistworld:20200225083042j:plain


「過去の意味-1 - 加藤秀俊」文春文庫 生きがいの周辺 から

講談の伝えるところが真実であるとするならば、大久保彦左衛門というひとは、たいへん自慢話の好きな人物であったらしい。とにかく、ことあるごとに、若侍をあつめては、トビの巣文殊山、十六歳の初陣における手柄話に花を咲かせるのである。それが、一度や二度ならまだいい。しかし、一般に老人というのはきわめて物忘れの激しい人種であって、ひとの顔さえ見れば、おなじ話をなんべんでもくりかえす。十六歳の初陣のはなしも、彦左老にとっては、十八番というやつであるから、ことあるごとに反復されるのである。くどいのである。
だから若侍たちは、彦左老の自慢話がはじまると、互いに袖をひき合い、眼くばせをして、おい、やんなっちゃうなあ、また、あの話だぜ、と、うんざりするのであった。
あえて彦左伝説にかぎらない。現代でも、老人はしばしば、くどくどしく、むかしの自慢話をする。わたしが、かつて、北陸線の車中で偶然におなじ汽車にのりあわせた老人がそうであった。かれは、まったく見知らぬわたしをつかまえて、はなしはじめた。あなたなんかは、まだ若い、これから、いろんなことをなさるだろう、いや、わしも若いころには、あれこれと手を出してみたものさ - そう言って、かれは、わたしの手に携帯用日本酒ビンのサカズキを持たせ、いっぱい注いでくれて、まあ、きいてくれ、と身上話をはじめたのである。
このおじいさんは、秋田の寒村で生まれた。小学校を卒業してから、東京に丁稚奉公に出た。店は浅草で、小間物を扱っていた。二十二になったとき、主人の口ききで結婚をして、のれん分けをしてもらい.....とにかく、こまかいことを抜きにして、カンドコロだけいえば、貯めた小金を現物取引に投資して、それが面白いほどよく当たって、第一次大戦後の好景気にちょっとした成金になった。小石川に家作を買って、もっぱら、家主業で左ウチワ。毎月、歌舞伎座に芝居を見に行った。ともかく、成功の甘き香りに陶酔していたのである。
それがねえ、あなた、とかれは言った、戦争ですよ。戦争でねえ、みんな焼けちまいました。ウワ物がなくなれば、地主なんて弱いもんですよ。それに、あのドサクサでござんしょう、バカバカしいほどの安値で、三十坪、五十坪と土地を人手に渡して、みんな米やイモに化けちまいました。それからあとは、もう、坂道をころげ落ちるみたいなもんで、いまは、こうして、保険の外交でどうにか生きているんですよ。
ながいあいだ東京にいて、しかも、二十年ちかい人生のピークを裕福に暮らしていたのだから、かれのことばは歯切れがよく、品があった。わたしは、いちいち相槌を打ちながら、ひとつの人生の軌跡を、くっきりと勉強することができた。
はなしは、この老人にかぎったことではない。かねてから、わたしは、六十歳以上のごくふつうの市民にインタビューをして、その人生と、それをとりまく日本の現代史とを学ぶことをこころみてきた。そして、そのインタビューのたびに、かならず、といっていいほど、自慢話にぶつかる。いや、いまはこうしていますがね、むかしは.....と老人たちは言う。その自慢のタネは、金もうけであったり、冒険であったり、あるいはゴルフのハンデであったり、じつに多種多様だが、とにかく、懐古談のなかには、自慢話がなんらかのかたちで顔をのぞかせるのである。そして、そういう話をするとき、老人たちは、幸福そうである。しばしば、かれらは、うっとりとした表情になる。ひとは追憶に生きるものだ、という詩人のことばを、わたしは、なるほど、と思い出したりもする。ひょっとすると、いや、たぶん、わたしもこれから何年かたったら、しぜんとそうなってゆくにちがいない。
そうした自慢話の内容は、じつのところ、客観的には他愛のない性質のものだ。さきほどの北陸線の老人にしたって、その束の間の成功は、社会的にどうこう、という大げさなものではないし、仮に老人の成功を知っていた人がいたとしても、もう、とっくに忘れているはずである。他人というのは冷ややかなものであるから、はァ、そんなこともあったようですね、くらいの反応しか示してくれないだろう。
しかし、本人にとっては、その過去の経験こそが、存在のあかしなのである。とにかく、かけがえのないじぶんの一生、そのなかでじぶんはこういうことを考え、こういうことをしたのだ、という自己認識 - それがおよそ人間個人にとっての立脚点なのである。