「過去の意味-2 - 加藤秀俊」文春文庫 生きがいの周辺 から

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「過去の意味-2 - 加藤秀俊」文春文庫 生きがいの周辺 から

それほどじぶんにとってだいじな過去の経験を、誰もが理解していてくれない、いや、知ってさえいてくれない、というのは淋しくてまた悲しいことだ。だから、老人たちは、誰かれとなくつかまえて、じぶんについて語る。それは、大久保彦左衛門以来の伝統というものだ。誰かにむかって、とにかく、しゃべってしまえば、それで満足なのである。自慢話とは、そういうものだ。
しかし、ここまで書いてきて、わたしは考える。はたして、自慢話というのは老人だけの特技だろうか。
どうやら、経験的にいって、自慢話は老人だけのものではない。年齢のいかんを問わず、人間は自慢話、あるいは手柄話をするものだ。セールスマンは、難攻不落とされてきた顧客をついに説得して契約をとったときの苦心談をするし、技術者は、誰もが気付かなかった工程上の合理化をじぶんが発見したのだ、いったようなことを誇る。スポーツの好きな人は、それが登山であろうと、テニスであろうと、そこでじぶんが達成したすばらしい記録を自慢するし、また、釣人は、じぶんの釣りあげたみごとな魚の魚拓をひとに見せびらかす。
自慢というやつは、しばしば、やり切れないもので、いや、おれが、おれが.....と、自慢好きの人物がしゃべりはじめると、きいているほうは、すくなからず鼻白む思いがするのである。とりわけ、自慢合戦がはじまり、ふたりが、その釣った魚の大きさだのゴルフのハンデだのを競い合っているのをきくと、人間というもののあさましさをつくづく感じさせられてしまう。そして、そのことを、本人もよく知っているのである。自慢というのは、はしたないことだ、と思っているのである。だが、それにもかかわらず、つい、自慢がはじまってしまう。人間のいるところ、かならず自慢話がある。
なぜ自慢話をするか。いや、そもそも自慢とはどういうことであるのか。わたしのみるところでは、それは人間の生活史における光輝ある一瞬の問題であり、あるいは、その一瞬についての記憶の問題である。あえていうまでもないことだが、およそ人生なんて、そんなにしょっちゅうおもしろいわけのものではない。おもしろいかもしれないが、そのおもしろさはうつろいやすい。なんとなく単純な「時間」がぼんやりとすぎてゆく。ああ、今日も暮れたなあ - そんな日が大部分なのだ。
ところが、そういった単調な流れのなかに、ちょっとした特別の瞬間がある。忘れられない瞬間がある。そうした瞬間の残像を、われわれはいくつか頭のなかに記憶している。
三島由紀夫さんは、はじめて産湯をつかわされたときのことを記憶されているそうだ。ふつうの人間は、そんな乳児期経験まで記憶していることはあんまりないだろうけれど、たとえば小学校に入学したときのことだとか、犬にかみつかれたときのことだとか、あるいは、遊園地に行った思い出だとか、とにかく雑多な幼児経験を誰でもがもっているし、その後の人生でも、たとえば恋愛だの、就職だの、けんかだの、事故だの、いろんなことを人間は経験し、それがかさなりあって、そのひとの過去をつくりあげる。
一般に、人生は、連続した映画のようなものとしてとらえられる。人生の一瞬一瞬は、その連続動画のコマのようなものだ、とわれわれは考える。しかし、右のようにみてくると、どうやら、人間の生きてきた軌跡は、絶え間のない動画というよりは、むしろ、何枚かのスチル写真によってでき上がった組写真にちかいように思われる。ちょうど、それは映画館のウィンドウに貼り出された何枚かのブロマイド写真のようなものだ。えんえんとつづく、映画のなかの、ヤマ場だけをえらび出したあのウィンドウで、われわれは、その映画のハイ・ライトを見ることができる。連続のなかのいくつかの断面 - その断面のかさなりあいが、その映画を語ってくれるのだ。
それとおなじように、われわれひとりひとりの過去の経験は、スチルの組写真なのである。忘れられない瞬間のイメージは、あざやかなスチル写真になって、それぞれの人間の人生というドラマのハイ・ライトを用意しているのである。わたしは映画ぜんたいについては、およその物語をおぼえているだけだが、印象に残る名場面というのが、映画にはある。たとえば、『ジェルソミーナ』の終場面、『ベラ・クルス』におけるさいごの決闘場面 - 人生もそれとおなじことだ。それぞれの人間は、それぞれに何枚かの名場面をもっているのである。どんな平凡人にだって、それはある。その名場面あればこそ、人生には意味がある。