(巻二十五)春宵や故人ばかりの映画観る(山戸暁子)

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(巻二十五)春宵や故人ばかりの映画観る(山戸暁子)

 

2月27日木曜日

 

風が冷たい中を散歩と買い出しに出かけた。

昨日まで欠品だった“ある”ヨーグルトが今日は棚に並んでいた。何かと悪く悪く考えてしまうが、今の状態では仕方あるまい。

 

日々反省することも多い。特に細君と二人の時間が長いので気を付けよう。もはや立場は逆転しているのだし、元気でやっていてくれないと、あたしが先に逝けない。

何事につけ逆らわないことが第一で、第二は余計な事は言わないことだ。

こちらにもストレスは溜まるが読書や落書きで解消するしかない。

細君は義妹に電話して暫くお喋りをしていたが、ガス抜きになって呉れればこんなありがたいことはない。

 

そんなわけで、少しは発散できたようだ。夕方、機嫌のよい声で呼ばれ寒いベランダで夕焼けの上に輝く金星と三日月を二人で愛でた。

 

三日月にかならず近き星ひとつ(山口素堂)

 

 

水野肇氏の「死生観」を読み返してみた。

氏によれば「老化は生から死への時の流れ」だそうだ。違いない。死を暗いものだ思えば老い先きが暗いのは当たり前のことだ。

死にともなう苦痛についての見方も解りやすい。“痛”については医学の範囲で緩和医療などが進んでいると言う。一方で“苦”は医者では解決できない問題であるとしている。「死生観」が、つまり諦観が、定まっていれば苦しまず済むのか?

どんな死に方をするのか分からないが、どんな死に方するにしても、“まあ、こんなもんだ”と諦める心持ちに逝けたらと願う。 もっとも諦めがつくまでの四段階(キュープラー・ロスの五段階)が“苦”なんだろう。

 

あきらめて狸に戻る狸かな(三方元)

 

「キュープラー・ロスの五段階 - 水野肇」中公文庫 夫と妻のための死生学 から

 

 

《これは、瀕死の状態でなくとも、死がさけられない段階になると、同じようになるのだとみられる。ただ、いつかは死ぬだろうというような、たとえば、動脈硬化が進行しているとか、心電図がかなり悪いといったようなときには、五段階の心境にはならない。というのは、こういう状態では、やがて命を落とすことがわかっていても、その時期がはっきりしない場合は、このような心境にはならない。しかし、手おくれのガンだとわかったときには、この段階を経るのが通常のようだ。

まず、死にたくないと思う。心理的なパニックである。ある一定の時期は絶望感に打ちひしがれる。何も手につかない。やがて、なぜ自分だけがこういう目にあうのかと思う。他の人はみんな元気なのに、自分だけが運命に呪われたように思い、おこりっぽくなる。そのうち、宗教心のある人は、神との取り引きに入る。宗教心のない人は、さらに苦悩することが多い。絶望感におそわれる。やがて自分のなかに閉じこもってしまい、抑うつ状態がやってくる。人と、ものをいわなくなり、何をする気もなく、一日じゅう、じっとしている。なんとなく考え込んでいる風である。やがて、容認というかあきらめの心境になり、それなりに落ち着くが、前向きにものごとを考えることはできない。そのうち、落ち着いて、少しは、ものごとを前向きに考えるようになり、結局、落ち着くところは「残された日々を毎日毎日、自分の良心にもとらない充実した日を送ろう」と思うようになる。そう考えるようになったときは、心の平静をとり戻しているわけである。》

 

残寒やこの俺がこの俺が癌. (江國 滋)

 

万緑や人の情も身に染みて(江國滋)