「過去の意味-4 - 加藤秀俊」文春文庫 生きがいの周辺 から

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「過去の意味-4 - 加藤秀俊」文春文庫 生きがいの周辺 から

このような「得意の一瞬」は、いわば記念写真のようなものだ。誰でもが、その写真を頭のなかに何枚か持っている。そして、その写真をときどき、ひとりで、とり出して眺めてみる。ひとりで眺めるだけでなく、他人にも見せたくなって、どうだ、こんなときがあったのだよ、と言う。それが自慢話というものだ。
わたしの考えでは、こうしたすべてのことは、きわめて健全なことである。人生における打率は、それほど高いものではありえないのだから、たまに当たったヒットは貴重である。誇るに価するし、それを誇りたいのは人間自然の感情というべきであろう。くどい自慢話は、大いに退屈だが、自慢話をすることで、お互い、人生における価値ある瞬間を確認しあうのだとするなら、それは、われわれが生きてゆくうえで必要な精神衛生の一方法である、といってもよい。
自慢話には、多かれすくなかれ、潤色のともなうことがしばしばである。大久保彦左衛門の初陣の手柄話なんかにしても、額面どおりにはいただきかねる。ほんとかね、といいたくなる。いや、じっさい、講談に出てくる豪傑が、むらがる敵を相手に、バッタバッタとなぎたおす、というあたりはまあまあ信用できるとしても、手当たり次第、大きな岩をちぎっては投げ、ちぎっては投げ.....などというのは、大いに眉ツバものといわなければならぬ。記念写真というものを、大いにカッコよくしておきたいのである。じぶんが主役であって、しかもそれが過去にぞくすることであってみれば、写真には修整作用、美化作用が加わる。そして、ひとにむかって、そういう美化された自慢話をしているうちに、しゃべっている本人も、いつの間にかその誇張を信じこむようになってしまう。例のホラ男爵のごときものが、その極限形態として生まれてくる。自慢話とホラ話は、ほとんど宿命的な類縁関係にある、と考えてよい。
それはそれでよいのではよいのではないか、とわたしは思う。社会の歴史については、歴史学というものがあり、いやしくも「学」と名のつく以上、正確で客観的な事実の記録を要求されるだろうけれども、人間の個人の歴史のなかでは、それが社会的に無害であるかぎりにおいて、ホラ話もゆるされてよいのではないか。それを語る本人がそれで幸福ならいいのである。一生に一回のヒットを、ホームランだと錯覚しても、べつだん、どうということはないだろう。そういう、一枚のすばらしい記念写真が人間の生きる力になっているのだとすれば、むしろ、すべての人間が大いに自慢話をする習慣をつけたほうがよいかもしれぬ。
じじつ、日本人というのは、きわめてひかえ目な民族であって、ほんとうは誇るに足るヒットをとばしているくせに、いや、あれはマグレ当たりで、お恥ずかしい、わたしなんぞ、なにもできやしません、とみずからを過小評価するふうが一般的である。自慢しないのが奥床しいとされているのである。そして、そんなふうに、へり下ったことばかり言っているうちに、みずから、ほんとうに無力なのであると思いこんでしまう。その結果、おれは人生の敗北者だ、などと考える人間が続出する。あんまりおもしろそうではないのである。
そして、そういう思いこみがゆきわたると、バッター・ボックスに立ったときにも足がふるえ、打てる球も打てなくなる。いや、バッター・ボックスに立つことさえしなくなる。どうせ、ダメにきまってます。やめときましょう - そう言って、ひきさがってしまうのである。
打席に立って、つねにヒットを飛ばすことは不可能なことだ。長島・王だって、三割の打率がせいぜいである。きびしい世のなかを相手に、われわれ凡人が打てるのは一割、いや、それ以下だろう。打てなくてあたりまえなのである。だが、それを承知で、バットをもってみることがだいじなのだ。そして、何十本かに一本のヒットを当てたとき、それは、その人が、一生、語りつづけることのできる自慢話になるだろう。たとえそれが大久保彦左衛門式のくどいホラ話であっても、それができる人はしあわせなのである。