(巻二十五)善悪の玉の浮世の狸汁(上村占魚)

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(巻二十五)善悪の玉の浮世の狸汁(上村占魚)

2月29日土曜日

今までのところ、細君の機嫌は良好だ。ただし、あたしの午後の散歩は禁止となった。別に流行り病に罹かるからというのではなく、あたしの出入りが細君の昼寝の妨げになるというのが理由である。やはり日々の重苦しい雰囲気で眠りが足りないそうだ。
買い物は午前中に行ってくださいとのことで生協へ出かけたが、普段の土曜日の午前中よりはやや客の入りが多いと認めた。パニックではないようだが、用心深くはなっているな。
あたしゃあたしのために柿の種を買い、加えて思い残すことの無いように和菓子のバラエティーパックは二袋買っておいた。

(読書)

「“荷風の最期” - 新藤兼人新潮文庫 ボケ老人の孤独な散歩(103頁辺り) から

を読みました。新藤監督は津川雅彦さんを起用して『濹東綺譚』を撮ったという。だから荷風についてはよくお調べになっているのだ。この章の他にも荷風の最期について書いているのでいずれコチコチしたい。

荷風は大便のほうで、ズボンを下ろして後へ仰向きに倒れていた。若い衆は早速抱きあげたが荷風はもうろうとしていた。ズボンをはかせようとすると、荷風ははっと気づいたように自分でズボンを引き上げようとしたが力がたりない。若い衆はズボンをはかせ、肩を入れてドアの外へ連れだした。
そこでおかみさんが駆け寄って、片方から荷風をたすけようとすると、荷風はプライドを傷つけられたようにその手をふり払おうとする。
だが荷風はもうろうとしているので、おかみさんと若い衆は両脇からたすけて、表へ出て行き、タクシーを呼びとめて乗せた。
落ちたソフトをおかみさんが拾って荷風の頭へのっけると「ありがとう」感謝のこもる声でいったそうだ。
それきり荷風尾張屋へこなかった。そして間もなく、おかみさんは荷風の訃報をきいた。
断腸亭日乗』によれば、「三月一日(昭和三十四年)。日曜日。雨。正午浅草。病魔歩行殆困難となる。驚いて自働車を雇ひ乗りて家にかへる」となっている。西洋料理店アリゾナによれば、店で倒れた荷風をたすけて起こしたのはアリゾナの主人である。そして荷風は以後一度も浅草へ出ることなく、四月三十日他界したのである。
尾張屋のことをなぜ書かなかったのか、トイレでお尻をむきだして倒れたことは痛恨の一事であったのか。

三月二日 陰。病臥。家を出です。
三月十六日 晴。正午大黒屋。

大黒屋というのは、荷風の家から歩いて三分、めし屋である。きまってカツ丼を食った。正午浅草が、正午大黒屋で埋まる。気力喪失したが、外食だから、食事は外に出なければならない。『断腸亭日乗』に - 余はつくづく老後家庭なく朋友なく妻子なきことを喜ざるべからず - とした荷風は、いまそのけじめを甘受しているのである。
四月三十日の朝、近所のお手伝いのおばさんが訪れて見ると、荷風は六畳の間に俯[うつぶ]せに倒れてこときれていた。
吐血のあとがあった。マフラーをかぶるように頭に巻いたままだった。ズボンがずり落ちていた。掃除の嫌いな荷風は、お手伝いのおばさんにも六畳は掃除をさせなかった。部屋は綿埃[わたぼこり]がたつほどよごれていた。火鉢、ネスコーヒーの瓶、まるでゴミ溜のようななかに荷風は無残に倒れていた。大事なボストンバッグが主人の枕許に転がっていた。
だが、荷風に悔いはなかっただろう。苦しい死が迫ってきても、あまたの女たちを思いおこさなかっただろう。ただ、気分が悪い、胸からなにかおしあげてくる、ああ、死ぬんだな、と思ったことだろう。
ノートには、大正六年以来書きつづけてきた『断腸亭日乗』が「四月廿九日。祭日。陰」とあった。》

大黒屋についてはすでにご紹介している『散歩とカツ丼』で少し触れられている。大黒屋は今はもうやっていない。
あたしゃ自分が死ぬときにこれで死ぬんだと思うのかなあ?
三十年近く前の話だが、あたしには尿管結石の超音波手術のときに下半身麻酔の手違いでアップアップして意識が無くなっていくという経験がある。どうしたんだ?というパニックが起こり、意識が無くなる寸前の一瞬だけこれで死んじゃうのかと思った。
通勤途中に倒れ救急車で運ばれて亡くなった方を知っているが、この方が救急隊員に言った最期の言葉は「すいません。クラッとしちゃって。」だと聞いている。死ぬとは思っていなかったのだろう。そのことはよかったとあたしは思っています。

うるさしと言ひて母逝く桃傷む(藤井祐喜)

気丈なお母さんですね。諦観がしっかりしていたのでしょう。