「3、男は不潔だが、しかし..... - 北原武夫」旺文社文庫 告白的男性論 から

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「3、男は不潔だが、しかし..... - 北原武夫」旺文社文庫 告白的男性論 から

性に目ざめるというのは、女性の肉体に心を惹かれるということであり、女性に憧れるというのは、女体の美しさに憧れることだというのだが、男性が持って生まれたどうしようもない性向だとしたら、若い男性が胸のうちに描く女性の理想像というのが、容貌とか肢体とか、すべて肉体的な点を主としていることが、もう読者にはよくおわかりでしょう。
若い男性などと、僕は今他人ごとのように書いたけれども、もういい年をした僕らでも実はそうなので、この点は、十六、七歳の少年や、二十五、六の青年と、ちっとも変わっていません。
ブリジット・バルドオもいいけれど、フランソワーズ・アルヌールのほうが、僕はほんとは好きだな、ただ、羚羊[れいよう]のように細いンじゃなくて、ほんのりと脂肪が乗って柔らかみのあるあの脚や、全身がしなやかに痩せているくせに、そこだけが熟れた果実のような息苦しいあのバストや、それから何よりも、暗い中で寂しく光っているみたいな、あの大きな濡れ色の目が、なんともいえない雰囲気を持っているよ、などということは、ついこの間あの「女猫」の試写を見た帰り、同じいい年をした映画監督や映画批評家といっしょに僕らが話し合った時の言葉です。
なんとも恥ずかしいような話ですが、実際にそう思って、スクリーンにチラチラ動いているはかない影に、本気で感動したのだから仕方がない。まア、バカらしいわと、一笑に付されても、僕の方は一向に困らないが、これがしかし、老若を問わない男性の本音なので、世の男性という男性は、めいめいの好みに応じた肉体的条件の上に、自分の理想とする女性の姿を描いているのです。
現に僕など、まだ若くて一人の恋人にもめぐり会わず、悩ましくてどうにも寝つかれない夜など、自分の好みの女性の肢体を、目の前の暗闇の中にいろいろと想像することで、どうやらやっと青春の飢えをこらえたものです。
それが、少し感受性が鋭敏で、注文のうるさい男性になると、色白で豊満でむっちりとしたバストをしているとか、浅黒くて鞭のように緊まった肢体をしているとか、夢見るような眼差しをした幻想的な顔立ちをしているとか、という程度ではそれが済まず、さわるとヒヤッとするようなキメの細かさだとか、折れそうなほどにしなしなした脚の細さだとか、もっと微に入り細をうがった、やっかいな好みを持っています。
自分の容貌のみっともなさや、体躯の貧弱なのは勘定に入れず、第一級の美女ばかりを自分の「お好み」の目当てにしている点、まったくいい気なもんだとしか言いようがありませんが、男性の胸のうちに描く女性の理想像というのは、それほど肉体に密着しているのです。
もう、賢明な女性はお気づきでしょうが、僕ら男性とあなた方とが、これほど違っている点はありません。
どんな女性に訊いてみても、理想はと訊かれて、「色白でキメの細かい人」だとか、「ふっくらとした綺麗な手の人」だとか、答える女性はいません。せいぜい、「禿げた人はいや」とか「あんまり背の低い人は困る」とかいう程度です。そして、多くの女性が、異口同音に答える言葉は、決まっています。「優しくて、親切で、誠実な人!」 - 座談会や、サークルでの会合や、または知っている女性とのじかの会話や、あらゆる場所であらゆる女性にたずねてみた時でも、僕はかつて、これ以外の返事を聞いたことがありません。
これはいったい、何を物語っているのでしょう?
いうまでもありません。めいめいの理想像を描く時、男性の想像力や空想力が、ただ女性の肉体の上にしか働かないのに反し、女性のそれは、ただひたすら男性のもつ精神的な面、人格的な面にのみ、向けられているということです。女性に対する男性の考え方が、はなはだ享楽的で悦楽的だとすれば、男性に対する女性のそれは、実に道徳的で倫理的だといえるでしょう。これこそ、まさに「憧れ」という言葉にふさわしいものであり、清純な未婚の女性が、僕ら男性に対して、しばしばあまりに無造作に発する、「男性って不潔よ」というあの言葉が、いみじくも、もしこの点を指して言っているものとしたら、僕らは全く、ただ無条件で頭を下げるしかありません。
全くそうなのです。男性の考える理想の女性というのは、彼の内部の深いところにある性的要求に支配された、それぞれの肉体上の好みの見本[パタン]であって、(少なくともそれが主であって)心の美しさとか誇り高い心とかというような、人格的なものに対する倫理的要求ではないのです。
もしそういう要求を彼が持っていたとしても、それは彼の好みの肉体的条件が、ひとまず果たされたあと、そのうえで、いっそうの美味としてそれにつけ加えられる、贅沢な追加注文であって、こっちを先にして、胸のふくらみや脚の線に対する注文をあとにするというようなことは、まず滅多に男性には見られません。
では、やむを得ずその点を認めるとしても、そんな厳密な審美的注文(?)でお好みの理想が出来上がるのなら、その出来上がった理想像は、どんなに堅固に男性に守られているのかという疑問が、当然あなた方に起こるでしょう。ところが、(この点が実は何よりも申訳ないのですが)本来堅固であるべきそれが、多くの男性にとっては、はなはだアヤフヤで頼りないのです。
今言ったような意味では、彼には一応、そういう理想のタイプが、頭の中に出来ています。彼は年がら年じゅう、その面影を心に抱き、ちょうどアメリカ人が始終チューインガムを噛んでいるように、寝ても、さめても、しょっちゅうその面影を心の中で噛みしめています。友人が、「僕は痩せ気味で面長な顔の女が好きだな」と、なにかの時うっかり洩らすと、「いや、おれは丸顔でぽっちゃりしてない女は嫌いだよ」などと、重大な法律違反でも相手が犯したように、断乎としてがんばる、が、そんなに頑固に主張していたくせに、さる時ある女性と知りあい、その女性から並々ならぬ好意を見せられたり、あるいは、「わたし、ほんとはあなたが好きなの」などと、はっきり言われたりすると、その厳密な美的基準(?)がたちまちグラつき、彼の理想的なタイプとは彼女がまったく反対であっても、そこにすぐさま恋愛が成立してしまうのです。
つまり、はっきり言うと、たいていの男性の胸に宿っている理想像というのは、見かけはどんなに厳密でも、それは要するにすべて恋愛以前の話であって、現実に一人の女性と知りあって、恋愛感情めいたものがそこに発生すると、彼の好みは徐々に、そして確実に、一変してしまうのです。
こんな時、彼の心の中で、なかば意識的に行なわれる一種の理想像の換金術ほど、滑稽にも涙ぐましいものはありません。彼は、やっと獲得できた自分の恋人が、長い間、胸のうちで暖めていた理想像とは大分違っているのを、自分でもよく知っていますが、それにもかかわらず、(いや、むしろそのために)その彼女をまえにして、彼の頭は、例えば、「この目がもう少し大きくって、鼻の先がもうちょっと尖んがってれば、おれの理想とそっくりじゃないか」とか、「この腕は少し色が黒いけど、形はすんなりしてるし、これで、もうちょっと胸がふくらんでれば、もうおれの理想そのままじゃないか」とかいうふうに、知らず知らず修整的に働き、現実の彼女と理想の女性とは、一、二カ月もすれば、もうなんの無理もなく、彼の中で一致してしまうのです。
金が銅に変わるのか、銅が金に変わるのか、それはわからないが、この換金術が無理なく行なわれるお蔭で、一人の女性に失恋しても、男性は立ち上がれるのだし、どんな醜男の男性にも、恋愛が恵まれているのです。男性本来の「不潔」さや頼りなさも、まアそう思えば、あなた方女性にも大目に見て頂けやあしないだろうか。