「私小説に逆らつて - 丸谷才一」集英社文庫 別れの挨拶 から

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私小説に逆らつて - 丸谷才一集英社文庫 別れの挨拶 から

文化勲章受章を祝ふ会での御礼の挨拶
二〇一一年十二月一日
帝国ホテル

新聞によると、わたしの今回の授章理由のなかに、私小説反対の立場を貫き成果をあげた、みたいなことがあるさうです。これはおそらく政府の発表に書いてあるのの丸写しで、どなたか委員の方がさう主張して私を推薦して下さつたのでせう。いい所を見て下さつたと、その、どなたかわからない方、ひよつとするとこの席にいらつしやるかもしれない方の判断に感謝します。
たしかにわたしは少年時代から私小説が嫌ひで、あれに反感を持つてゐて、文学的出発の当初から私小説反対を標榜し、近代日本文学の主流に対し反旗をひるがえしてきました。あんなに曲のない詰まらないものがどうしてあんなにたくさん書かれるのか、どうしてあんなに威張つてゐるのか、わからないなあと思つてゐた。
でも、吉行淳之介に言はせると、あれは仕方がないんですつて。いつだつたか銀座のバーでかう言ひました。
「本当は丸谷の言ふ通りなんだよ。本格小説でゆくのが本筋なんだ。でも、毎月、雑誌に小説を渡さなくちやならない - 場合によつては月に二つも三つも書かなくちやならないとなると、私小説でゆくしかないんだな。あれでやれば、とにかく何とか恰好[かつこう]がつくんだ」
とかう語つたのでありました。
もしさうだとすると、私小説の支持者たちが力説した意見、人間が最もよく知つてゐるのは自分自身のことで、それゆゑ作家は自分のことを書くべきだ、とか、自分の過去の過失や失敗や屈辱を告白することで人間性の真実に迫るとか、それゆゑ私小説を書かない作家はお体裁屋の卑怯者であり、文学者の風上に置けない悪者であるとかいふのは、みな、困つたあげくの逃げ口上にすぎないことになる。
わたしは吉行の述懐を聞いて、もつと私小説作家の暮しの都合に同情すべきだつたか、なんて、反省したのでありました。
とにかくわたしは、近代日本文学の基本的な小説の書き方に逆らつたわけで、これてば厭がられ、嫌はれるのは当り前である。賢い人はかういふことはしません。現に三島由紀夫は『仮面の告白』についての思ひ出のなかで、書きおろし長篇小説の注文があつたとき、ここは一つ私小説を書くべきだと思つた、日本の文壇は何と言つても私小説が支配してゐるのだから、と語つてをりました。頭のいい、要領のいい男はこんなふうに作戦を立てるんです。子供のときから私小説が嫌ひだから私小説批判の主張をはつきり書く、そして自分の小説では個人の生活の打明け話を決して筆にしないなんて馬鹿正直なことをするのは、あまり推奨すべき態度ではありませんでした。
とにかく私小説は近代日本文学を基本的に規定してゐた。昭和前半の文学で、ジードがあんなにすごい人気を得たのも、一つは政治的関心のせいもあつたでせうが、もう一つは私小説そつくりと取つて取れないことはないその作風のせいであつて、彼の文学の自伝文学的な書き方が私小説に近い、あるいは私小説そのものだと誤解されたからでせう。この風潮は戦後もつづいて、いはゆる第一次戦後派は、近代日本文学に対立すると公言しながら、しかし私小説の尻尾をひらひらとつけながら書きつづけ、その自己矛盾、自己瞞着に関しては終始、鈍感でした。
さういふ空気のなかで、わたしは愚かにも私小説反対の立場を守りつづけたわけですが、ふと気がついてみると、村上春樹さん、池澤夏樹さん、辻原登さんなどの普遍的な世界文学に通じる書き方が日本現代文学の大勢を占め、一群の女性作家たちも、物語的、寓話的、ロマンス的な作風で読者たちを喜ばせてゐて、つまり私小説めいた書き方は少数派になり、私小説は一部の臍まがりに賞玩される昔かたぎな珍品になつてゐたのです。
かういふ文学史的変化には、わたしのあまり賢いと言へない生き方もかなり貢献してゐると自負してゐましたが、いはゆる現代文学史はこんな見方は決してしない。日本文学を変へたのは『太陽の季節』だと繰返してゐるだけである。
ところが今度の授章理由ははじめてそのへんの事情に触れてくれた。勲章といふのはいいものだとわたしは喜び、感謝しました。
このたびは数多くの方々からお祝ひのお手紙をいただき、有難く思つてをります。それで思ひ出したのですが、昭和二十年八月二十七日、これは敗戦の年の誕生日で、わたしは旧日本軍のまだ復員してゐない兵隊として八戸附近の村にゐたのですが、この日に、母親からの誕生日の祝ひの手紙を受取りました。それに「これからはあなたの時代です」と書いてあつたのが忘れられない。そのときわたしは、これは母がわたしの反軍国主義的傾向、反時代的な思想を前まへから心配してゐてくれて、もうその方面で心配する必要がなくなつたことを喜んでゐる、もう何を言つても大丈夫な世の中になつたことにホツとしてゐるのだと解釈しました。そして、まるで母親の手紙に励まされたやうに、近代日本文学の主流に挑みつづけたのがわたしの戦後だつたわけで、じつにまあ幼稚な甘い考え方でありますが、その成果の文壇的な見るべきものがあることは先程申上げた通りです。つまり成功した、と言へないことはない。
一方、わたし自身の小説はどうか。大きい口を叩いたにもかかはらず、それに伴つていないことはやはり認めるしかありません。しかし、八年前の『輝く日の宮』と今度の『持ち重りする薔薇の花』で、わたしは多少小説の書き方がわかつてきた、自分で言ふのは何ですが、うまくなつたやうな気がします。
そんなわけですので、今日の会で吉田秀和さん、山崎正和さんにこの二つの小説を認めていただいたのは嬉かつた。とりわけ、他ならぬ吉田さんが、『持ち重りする薔薇の花』について、音楽の微妙な所をとらへてゐる、あれは丸谷さんの力か、それとも悪魔の協力を得たのか、と批評して下さつたのは、わたしを有頂天にさせました。
そこで、今後のことになりますが、さいはひ体の調子はいいみたいですから、もうすこし努力して、もうすこしましな小説を書きたい。そして、もしできることなら現役の小説家として死にたい。さう願つてゐます。どうぞ丸谷才一のこれからの、最晩年の作品に御期待下さい。本日はまことに有難うございました。