(巻二十五)夕ぐれに申し合せて蛙かな(文皮)

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(巻二十五)夕ぐれに申し合せて蛙かな(文皮)

 

三月三日火曜日

 

(細君)

朝方、細君は医者に出かけたが、半日かかるところを一時間半ほどで帰ってきた。普段だと二十人くらいの患者が来るのだが、今朝は五人だけだったそうである。

いろんなことが浸透してきたのならそれはよいことだと今は思う。

 

(散歩)

兎に角建物の中には入らない。今日は公園のベンチも温かいが、自分にはどうしようもないことに取り憑かれて気分は重い。簡単に云えば「おめえそんなにえれえのかい?馬鹿じゃん!」と云うことである。

 

眉寄せて日向ぼこりの下手な人(奥坂まや)

 

帰宅して今朝干した洗濯物を取り込む。よく乾いていた。よしよし。

“このくらい軽くありたい。”

 

(あたし)

去年の台風のことがあってだろう、区から荒川、中川、江戸川の氾濫を想定したハザード・マップが配布された。案内に沿って災害関係のメルマガを受け取れるようにはしておいた。

 

颱風を甘くみてゐた悔のあり(田中節夫)

 

あたしゃ3メートルから5メートル浸水するところに棲息しているようだ。暗い話の追い撃ちである。

溺死と云うのもあるが苦しそうだな。恐怖感は強いだろうなあ。穏やか死からは離れているなあ。

 

増水に蛇が抱きつく細き枝(伊藤博康)

 

(読書)

 

サフラン - 森鴎外岩波文庫 日本近代随筆選1 から

 

を読んでみた。鴎外は初めてであります。

鴎外は岩波文庫のこの随筆選1の初めを飾っております。そういうことのようです。

 

《 私は子供の時から本が好だと云われた。少年の読む雑誌もなければ、巌谷小波[いわやさざなみ]君のお伽噺もない時代に生れたので、お祖母[ばあ]さまがおよめ入の時に持って来られたと云う百人一首やら、お祖父[じい]さまが義太夫を語られた時の記念に残っている浄瑠璃本やら、謡曲の筋書をした絵本やら、そんなものを有るに任せて見ていて、凧と云うものを揚げない、独楽と云うものを廻さない。隣家の子供との間に何等の心的接触も成り立たない。そこでいよいよ本に読み耽[ふけ]って、器に塵の附くように、いろいろの物の名が記憶に残る。そんな風で名を知って物を知らぬ片羽になった。大抵のもの名がそうである。植物の名もそうである。

父は所謂蘭医であ。オランダ語を教えて遣ろうと云われるので、早くから少しずつ習った。文典と云うものを読む。それに前後編があって、前編は語を説明し、後編は文を説明してある。それを読んでいた時字書を貸して貰った。蘭和対訳の二冊物で、大きい厚い和本である。それを引っ繰り返して見ているうちに、サフランと云う語に撞着[どうちやく]した。》

 

が導入です。

英才教育の成果ですね。