4/4「アフリカ沖にマグロを追う - 北杜夫」中公文庫 どくとるマンボウ航海記 から

f:id:nprtheeconomistworld:20190712184713j:plain


4/4「アフリカ沖にマグロを追う - 北杜夫」中公文庫 どくとるマンボウ航海記 から

リスボンに向ってカナリア諸島の下にさしかかった頃、左舷におよそ百頭ほどのイルカの群が出現した。彼らはいつも船と平行して競走し、しばらくの間目を楽しませてくれる。律動的に弧を画いて数頭ずつスパッと空中にとびあがる。“おも”に人だかりがしているので行ってみると、船首すれすれに四頭のイルカがついて泳いでいる。余力がないのかあまりとびあがらず、やがて二頭が左に脱落し、あとの二頭は今にも船に突きあたりそうになりながら方向を変えず十分ほど力泳していたが、やがて左方にそれて行った。
イルカが跳ねるとシケると言われるが、翌々日から次第にうねりが高まってきた。最後の操業の日は大波が甲板を洗い、それにつれて並べてあるマグロが右往左往すべりだすといった有様。私は登山のヤッケに身をかためノコノコ甲板に出て行ったとたん波をくらって仰向けに転倒し、マグロにしがみついたままおし流され、ホウホウの態で退散した。船室でも机上の品物が横?りを開始する。もうそれにも慣れてきて、ウイスキー・グラスが?っていって慌てて抑えたりはしない。横目で窺っていると、またツーツーと手元に戻ってくる。そこを掴まえてグビリとやるとちょっとした船乗り気分である。
しかし調子にのって飲みすぎてしまい、随分あると思っていた手持ちのウイスキーが意外に心細くなってきた。そこで私はウイスキーを長持ちさせる飲み方を発明したが、ここでその方法を紹介しておく。まず、箸と氷の小片とコップに三分の一ほど満たしたウイスキーを用意する。箸で氷をつまみ、それをウイスキーにひたし、これを口中に運んでしゃぶるのである。氷の味しかしなくなったら再びウイスキーをつける。この方法においては、氷がウイスキーに溶けるため、いつまでたっても中身が減らないのである。ただ次第に薄くなってまずくなるのは致し方ないことで、ついにはヤケになってガブリと飲みほす。結局は同じことである。
しかし、更に揺れが激しくなってくると、そう安閑としてもいられない。リスボンに明日着くという日は、風を真横にうけてひどいローリングが始まった。大波とまともにぶつかると、もう普通のゆれではなく、船体が胴ぶるいしてきしむのが感じられる。こういうときは船酔いでのびてしまった方が気が楽なので、なんの因果か船に強い私は、自分のことが心配でないとなると、余計な心配までしなければならない。ブリッジへ行ってみると、海は鉛色に湧きかえり、風速計は船の速度と相まって二十メートルの線を易々とこえている。船体が大きく傾き、傾斜度が三十度近くなれば、何かにすがりつかなくては立っていられない。一度は三十二度の線をこした。サード・オフィサーの話によれば、この船は復元力が良好とはいえず、試運転のとき舵を一杯にきったら、かしいだままなかなか元に戻らなかった。勿論そうたやすくひっくり返りはしまいが種々の悪条件が重なれば、たとえば油タンクが空になっているとき大きく横揺れしてそこに同一方向からもうひとつ大波がぶつかればどうなるか判ったものではないという。あまり楽しからぬ話ではある。
船室に戻ると、もう机の上はメチャメチャで、今まで落ちたことのないラジオが床に仰向けになっている。台湾沖のシケのときは自分のことでせい一杯であったが、このときは船の運命を案ずること船長より私のほうが上だったと思う。夜になって風呂にはいると、湯の表面がそれこそあきれるくらいかしぎ、揺れるたびにザアーッと湯がこぼれる。いくらなんでもすっ裸がで海中にほうりだされるのはイヤだから早々にあがってしまった。
日本を出たばかりの頃、調査官の部屋に行くと救命具がきちんとベッドの上の網棚にのせてあるので、僕のもあるだろうかとサード・オフィサーに訊くと、彼はゴソゴソ腰掛の下を探して救命具をとりだしてくれたが、「でも、こんなものがいくらあっても沈んだらどうせダメですよ」と言った。私はナルホドと思い、それを医務室のどこかの隅にほっぽり投げておいて、みんながしているように網棚は書物を置く場所にしてしまった。私はこのとき救命具を捜しにゆく気にこそならなかったが、「ウイスキーを減らさずに飲む方法」で氷の表面についたウイスキーをしゃぶりながら、こら船、ひっくり返りやがったら承知しないぞ、と独語した。すると船はますます傾斜して椅子にかけているのが困難になってきた。私は片手でコップをおさえ片手で身をささえながら更に独語した。コラ船、これ以上傾きやがったらそれこそ只ではおかないぞ、今でさえ俺はもうカンカンだぞ。
これが山であれば嵐に会っても自分の力と判断で運命をきりひらいてゆけるのだが、海ではよほど小さなヨットででもなければ所詮船まかせであるから、せめて船を怒りつけるくらいしかやりようがない。