(巻二十五)栗鼠を呼ぶなんと貧しき英語にて(対馬康子)

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(巻二十五)栗鼠を呼ぶなんと貧しき英語にて(対馬康子)

三月九日月曜日

この句は身に凍みる句であります。なかなか英語というものは使えるようになりません。

惜春やRの舌の置きどころ(末兼友子)

(細君)
クリニックに検査結果を訊きに出かけた。混み合っていないという予想で出かけた。そして予想どおり早く帰宅したが、数値が微妙に動いたようだ。まだ治療投薬線までは随分余裕があるらしいが同病の友に電話していた。

そういうわけであたしの昼飯はコンビニでサンドウィッチでも買いなさいとのことだ。
郵便局に寄ったあとコンビニでパンを調達し家に戻った。
バスは走り、ゴミは回収され、道路工事が進んでいる。今のところ世の中がいつもどおりに動いているらしいのを見て少し気分が楽になる。

(読書)

「橋の彼方の世界 - 江藤淳新潮文庫 荷風散策 から

昭和六年(一九三一)の『断腸亭日乗』を繙[ひもと]くと、この年の十一月以降翌七年の六月にかけて、荷風散人が深川から砂町埋立地あたりにまで、しきりに杖を曳いていることが明らかである。
たとえば、ここに次のような記事がある。

《十一月二十日、好く晴れて風もなし、ホジ[難漢字]中洲に往き薬を請ふ、暮色怱蒼茫たり、新大橋を渡り電車にて錦糸堀終点に至る。四之橋より歩みて五の橋に出[い]で、溝渠[こうきよ]に沿ひて大嶋橋に至る、新道路開かれ電車往復し工場の間には処々公園あり、余震災後一たびも此辺に杖を曳きたることなければ興味おのずから亦新たなるを覚ゆ、震災前には菊川橋より以東は工場の煤烟溝とく[難漢字]の臭気甚しく、殆[ほとんど]歩む事能[あた]はざるほどなり、然るに今日来り見るに、工場の構内も餘程清潔になり、道路もセメント敷となり、荷車走過るも塵烟[じんえん]立迷はず、溝渠の水も臭気を減じたり、扇橋を渡り新開道路を往復する電車に乗る、小名木岸より洲崎遊郭前に至る間、広々したる空地あり、堀割幾筋となく入り乱れ、工場の烟突遠く地平線の彼方に屹立[きつりつ]す、目黒渋谷あたりの郊外とは全く別様の光景なり》

荷風は震災後の荒涼とした深川東部を探訪したようだ。江藤淳氏の解説によれば荷風はそこに“死の世界”を見ようとしたとしている。

《 大正十二年(一九二三)の関東大震災後十一年を経て、いまだに焦土のままにとどまっている深川の情景である。しかし、ここには清親の画面に小さく、黒く描き込まれて、亡霊のように烈風に吹かれている無数の被災者たちの人影がない。「眠そうな顔をして腰をかけてゐ」る乗合自動車の女車掌のほかには、この「広漠たる」焦土を彩[いろど]る人間の姿は絶無なのである。
これこそほとんど他界の風景そのものではないか。荷風は、新大橋の彼岸に杖を曳きながら、実は死の世界に出逢おうとして歩きつづけているのではないか。》

あたしゃ死の世界には興味がない。兼好と同じように死をもって全てが終わり、その先はないと思っていて、そう願っている。

1/2「花月西行(其の二) - 上田三四二新潮文庫 この世この生 から

西行を兼好から区別する最大の目じるしは何か。
兼好が後世抜きであるのに対して、西行には後世が信じられている。兼好の生は「死の瞬間における死」である滝口に終る。身の終りがすなわち魂の終りである。しかし西行の魂は身の終りの後にまで生きのびて、滝口は絶望的な存在の消滅を意味しない。死の瞬間は西行にとってももちろん劇的であり、西行の場合とりわけ劇的であったといわねばならないが、しかしそれは悲劇的でも絶望的でもなかった。》

更に先があるのなら何で死ぬのか分からないし、死んでもしょうがない。
勝海舟ではないが、「これでおしまい」というのがいいところなのだ。

死後などはなし凍裂の岳樺(高野ムツオ)