1/3「虫のいろいろ - 尾崎一雄」岩波文庫 暢気眼鏡・虫のいろいろ から

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1/3「虫のいろいろ - 尾崎一雄岩波文庫 暢気眼鏡・虫のいろいろ から

晩秋のある日、陽ざしの明るい午後だったが、ラジオが洋楽をやり出すと間もなく、部屋の隅から一匹の蜘蛛が出て来て、壁面でおかしな挙動を始めたことがある。
今、四年目に入っている私の病気も、一進一退というのが、どうやら、進の方が優勢らしく、春は春、秋は秋と、年毎の比較が、どうも香[かん]ばしくない。目立たぬままに次第弱りというのかも知れないが、それはとにかく、一日の大半を横になって、珍しくもない八畳の、二、三ヶ所雨の“しみ”ある天井を、まじまじと眺めている時間が多いこの頃である。
もう寒いから、羽虫の類は見えないが、蠅共はその米杉の天井板にしがみついていて、陽のさす間は、縁側や畳に下りてあっちこっちしている。私の顔なんかにもたかって、うるさい。
蠅の他に天井や壁で見かけるのは、蜘蛛である。灰色で、薄斑[うすまだら]のある大きな蜘蛛だ。左右の足を張ると、障子のひとこまの狭い方からはみ出すほどの大きな蜘蛛だ。それが何でもこの八畳のどこかに、二、三匹はひそんでいるらしい。一度に二、三匹出て来たことはないのだが、慣れた私の目には、あ、これはあいつだ、と、そのその違いが直ぐ判る。
壁面でおかしな挙動を見せた奴は、中で一番小さいかと思われる一匹だった。レコードの、「チゴイネル・ワイゼン」 - 昔、私も持っていたことのあるヴィクターの、ハイフェッツ演奏の赤の大盤に違いなく、鳴り出すと私には直ぐそれと判ったから、何か考えていたことを放り出し、耳は自然とその派手な旋律を迎える準備をした。
やがて、ぼんやり放っていた視線の中に、するすると何かが出て来たが、それが蜘蛛で、壁の角からするすると一尺ほど出て来たと思うと、ちょっと立止った。見るともなく見ていると、そいつが、長い足を一本一本ゆっくりと動かして、いくらか弾みのついた恰好で壁面を歩き廻り始めたのだ。蜘蛛の踊り - ちょっと思ったが、踊るというほどはっきりした動作ではない、曲に合わせてどうこうというのではなく、何かこう、いらいらしたような、ギクシャクした足つきで、無闇とその辺を歩き廻るのだ。
- 浮かれ出しやがった、と私は半ば呆れながら、可笑[おか]しがった。幾分、不思議さも感じた。牛や犬が、音楽 - 人間の音楽にそそられることがあるとは聞いていたし、殊に犬の場合は、私自身実際に見たことがあるのだが、蜘蛛となると、ちょっとそのままには受取りかね、私は疑わしい目つきを蜘蛛から離さなかった。曲が終ったら彼はどうするか、そいつを見落とすまいと注視をつづけた。
曲が終った。すると蜘蛛は卒然といった様子で、静止した。それから、急に、例の音もないするするとした素ばしこい動作で、もとの壁の隅に姿を消した。それは何か、しまった、というような、少してれたような、こそこそ逃げ出すといったふうな様子だった。- だった、とはっきりいうのもおかしいが、こっちの受けた感じは、確かにそれに違いなかった。
蜘蛛類に聴覚があるのか無いのか私は知らない。ファーブルの「昆虫記」を読んだことがあるが、こんな疑問への答えがあったか無かったかも覚えていない。音に対して我々の聴覚とは違う別な形の感覚を具[そな]えている、というようなことがあるのか無いのか。つまり私には何も判らぬのだが、この事実を偶然事と片づける根拠を持たぬ私は、その時ちょっと妙な感じを受けた。これは油断がならないぞ、先ずそんな感じだった。
このことに関連して、私は、偶然蜘蛛をある期間閉じ込めたことのあるのを憶い出す。
夏の頃、暑いうちはいくらか元気なのが例の私が、何かのことで空瓶が要[い]って、適当と思われるのを一本取り出し、何気なくセンをとると、中から一匹の蜘蛛が走り出て、物陰に消えた。足から足まで一寸から一寸五分の、八畳の壁にいる奴とは比較にならぬ小型のだったが、色は肉色で、ほっそりしていた。
瓶から蜘蛛が出て来たので、私はちょっと驚いた。私は記憶を辿ってみた。これらの空瓶は、春の初め、子供たちにいいつけて綺麗に洗わせ、中の水気を切るため一日ほど倒[さか]さにして置き、それからゴミやほこりの入るのを防ぐためセンをして、何かの空箱にまとめておいたものだ。蜘蛛が入ったのは、その一日の間のことに違いない。
出口をふさがれた彼は、多分初めは何とも思わなかったろう。やがて何日か経ち、空腹を感じ、餌を捜す気になって、そこで自分の陥っている状態のどんなものかをさとっただろう。あらゆる努力が、彼に脱走の不可能を知らしめた。やがて彼は、じたばたするのを止めた。彼は凝[じ]っと、機会の来るのを待った。そして半年 - 。私がセンをとった時、蜘蛛は、実際に、間髪を容[い]れず、という素早さで脱出した。それは、スタート・ラインで号砲を待つ者のみが有[も]つ素速さだった。
それからもう一度。
八畳の南側は縁で、その西のはずれに便所がある。男便所の窓が西に向って開かれ、用を足しながら、梅の木の間を通して、富士山を大きく眺めることが出来る。ある朝、その窓の二枚の硝子戸の間に、一匹の蜘蛛が閉じ込められているのを発見した。昨夜のうちに、私か誰かが戸を開けたのだろう。一枚の硝子にへばりついていた蜘蛛は、二枚の硝子板が重なることによって、幽閉されたのだ。足から足三寸ほどの、八畳にいるのと同種類の奴だった。硝子と硝子の間には彼の身体を圧迫せぬだけの余裕があって、重なった戸のワクは彼の脱出を許すべき空隙を持たない。
私は、前の、空瓶の場合を直ぐ憶い出した。今度は一つ、彼の行末を見届けてやろう、そんな気を起こした。私は家の者共に、その硝子戸を閉めるな、といいつけた。空瓶中の蜘蛛は、約半年間何も喰わず、粗雑な木のセンの、極めて僅かな空隙からする換気によって、生きていた。今度のは、丸々と肥えた、一層大きな奴だ、こいつとの根気比べは長いぞ、と思った。
用便のたび眺める富士は、天候と時刻により身じまいをいろいろにする。晴れた日中のその姿は平凡だ。真夜中、冴え渡る月光の下に、鈍く音なく白く光る富士、未だ星の光りが残る空に、頂近くはバラ色、胴体は暗紫色にかがやく暁方[あけがた]の富士 - そういう富士山の肩を斜めに踏んまえた形で、蜘蛛は凝っとしているのだ。彼はいつも凝ってしていた。幽閉を見つけ出したその時から、彼のあがきを一度も見たことはなかった。私が、根気負けの気味で「こら」と指先で硝子を弾[はじ]くと、彼は、仕方ない、といった調子で、僅に身じろぎをする、それだけだった。
一と月ほど経って、彼の体躯が幾分やせたことに気づいた。
「おい、便所の蜘蛛、やせて来たぜ」
「そうらしいです。可哀そうに」
「蜘蛛の断食期間は、幾日ぐらいだろう」
「さあ」
妻は興味ない調子だ。つまらぬ物好き、蜘蛛こそ迷惑、といった調子だ。私は妻のその調子にどこか抵抗する気持で、
「とにかく、逃がさないでくれ」といった。
更に半月たった。明かに蜘蛛は細くなって来た。そして、体色の灰色が幾分かあせたようだ。
もう少しで二タ月になるというある日、それは、壁間の蜘蛛の散歩を見た何日かの後だったが、便所の方で、「あ」という妻の声がし、つづいて「逃げた」ときこえた。相変らず横になってぼんやりしていた私は、蜘蛛を逃がしたな、と思ったが、それならそれでいいさ、という気持で黙っていた。
- いつも便所掃除のときは、硝子戸を重ねたまま動かしたりして蜘蛛の遁走には気をつけていたのだが、今日はうっかり一枚だけに手をかけた、半分ほど引いて気がついたときには、もう及ばなかった、蜘蛛の逃げ足の速いのには驚いた、まるで待ちかまえていたようだ - そんな、いいわけ混りの妻の説明を、私は、うんうんときき流し、命冥加[いのちみようが]な奴さ、などとつぶやいた。実のところ、蜘蛛を相手の根気くらべも大儀になっていたのだ。とにかく片がついた、どっちかといえば、好い方へ片がついた、そんなふうに思った。