3/3「続・読む - 開高健」角川文庫 白いページ2 から

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3/3「続・読む - 開高健」角川文庫 白いページ2 から

いつだったか、古本屋に、戦前に出版されたヒトラーの『我が闘争』か一冊あって、なにげなく頁を繰ってみたら、全頁ことごとくといってゆいほど赤鉛筆で線が引いてあったり、書きこみがしてあったりだった。そのことに興味をひかれて書きこみだけを眼で追ってみると、持主は当時おそらく貧しい、鬱々とした青年であったらしく、いたるところに『そうだ!』とか『そのとおりだ!』などと書きこんである。ヒトラーが自分の半生を回顧して貧民窟と、戦場と、街頭で人生を形成してきたのだということを綿々と述べているあたりはとくに濃く赤くなっていて、『要は人生、意志だ』とあったり、『歴史は鉄と血でつくられるのだ』とあったりする。
さほどイデオロギー臭のある書きこみがないところを見ると、この青年はヒトラーの成功ぶりに心酔、共感していて、ナチズムの信奉者であるとは思えず、デール・カーネギーの本にもおなじように熱狂したかもしれないと思われるふしがあった。しかし、それはそうであるとしても、当時の日本の都会のどん底で、貧しくて大学にもいけず、ろくな会社にも就職できず、あてどない憎悪と絶望にまみれて日を送っている若者の心情はまざまざとそこに渦巻いていることが感じられ、古本をかいま見たのではないような胸苦しさにみたされて私は店をでた。もしたくさんのレポーターや史学者の書くとおりであるなら当時ドイツでヒトラーを支持した青年層はおびただしくこのような人びとだったのである。
昔、熱狂したり、衝撃をうけたり、頭があがらないほどの感動をあびせられたりした本を数年後、十数年後、数十年後に読みかしてみるのはいい鍛錬になる。たいていのそういう本は一変していて、なぜこれにあんなに感動したのか、なかにはまさぐりようもないと感ずるまでに変っているのもある。ただ読みすすむうちに当時の自身がありありとよみがえる懐しさがあり、それが擬態の情熱をにじませてくれるが、郷愁はやっぱり郷愁であって、発見ではないのである。ただ、書物ほど容易に、優しく、謙虚に、過去の自身を見せてくれ、辿[たど]りつかせてくれるものは他にあまりないから、こういう本はどんなことがあっても売り払うわけにはいかないのである。もしそういう本について新刊本とおなじように批評を書かねばならないとしたら心苦しいことであろう。現在その書物からうけるのは昔別れた恋人とたまたま出会って聞かされる回顧としての告白なのだから、それから批評文をぬきだすのはひどくむつかしいことになるし、なかなか楽ではない手つづきが工夫されねばなるまいから、ソッとしておくにこしたことはない。

折紙つきの“名作”を読んでみて途中でほうりだしたことが何度あるかしれないという事実を思いあわせてみると、《桶はそれぞれの底でたつ》とか、《人めいめいに趣味がある》としかいいようがない。また、読んでいるうちはまぎれもなく“名作”とうめきたくなる感興に誘われるままだったのに読みおわってからふりかえってみると、たわいもない一言半句、それもテーマや物語の展開などと何の関係もない一言半句しかおぼえていないことに気がついて、茫然となることもある。
しかし、一言ものこらず、半句もないという本がどれだけおびただしいかを考えれば、それはやっぱりちょっとした作品だったのである。その一言半句のために数百頁、数十万語が費され、煮つめに煮つめたあげくのさいごのものがそれだったわけで、たとえそれがたわいもない一言半句だからといって捨てることはならないのである。それを捨てれば同時に数十万語も捨ててしまうことになるのだから、そこに気がつくと、たちすくんでしまうのである。それから、よく読後に重い感動がのこったと評されている“傑作”であるが、これは警戒したほうがいい。ほんとの傑作なら作品内部であらゆることが苦闘のうちに消化されていて読後には昇華しかのこされないはずで、しばしばそれは爽やかな風に頬を撫でられるゆうな《無》に似た歓びである。作品内部での不消化物が読後の感動ととりちがえられて論じられる例があまりに多すぎるので、そんなことも書きとめておきたくなる。