「平成版聖なる結婚 - 原田ひ香[か]」文春文庫 09年版ベスト・エッセイ集 から

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「平成版聖なる結婚 - 原田ひ香[か]」文春文庫 09年版ベスト・エッセイ集 から

「紅茶、二百五十円なんですけど?」という男の声がして、私は原稿から顔を上げた。
集中力がないので、毎日喫茶店でパソコンをひろげて原稿を書いている。私が行くような店は安いチェーン店でセルフサービスのところばかりだから、ひじがぶつかるほどテーブルとテーブルの間が狭く、自然にまわりの会話が耳に入ってきてしまう。声の主は、隣のテーブルの、四十代前半のサラリーマンぽい地味なスーツ男だった。一緒におとなしそうな三十代前半の女の子を伴っている。
「あ、あたし、細かいのがなくて.....」と彼女が言った。すると彼は「あ、大丈夫です。お釣りありますから」と言って、彼女から千円札を受け取るとお釣りを渡した。
私は急に二人の関係に興味を持った。正直、二百五十円である。私はなにもお勘定は絶対男が払うべし、なんていうマッチョな考え方じゃないけれど、そのぐらいの額なら、「あ、ここはいいですよ」と男女を問わずどちらかが払う方がスマートじゃないだろうか。いい歳をして、そこまできっちり割り勘をするのはいったいどのような関係なのだろうか。すると、男が彼女に「で、来週買いに行く婚約指輪ですが、予算三十万でよろしいでしょうか」と言った。彼女は丁寧にお辞儀をして「はい、よろしくお願いします」と答えた。
なんと二人は付き合っていたのだ、というか、婚約までしている仲だった。
それなのに、割り勘?
「再来週の両家の顔合わせですが、銀座の○○を予約しました。十二時から、食事代は折半で」「△△(結婚相談所の名前)には成婚報酬として三十万を収めることになりますが、それは十五万ずつ、ということで」
二人は丁寧な言葉遣いをくずさないまま、ほとんど仕事の打ち合わせか、それ以上と言ってもいいぐらい淡々と冷静に、礼儀正しく、結婚についてのもろもろの支払いを割り勘にしていく。結婚相談所で知り合って、二人で会うのは今日で三回目らしい。そんなことも自然に耳に入ってきてしまう。出会ってすぐに結婚を決めているのにもびっくりしたが、彼らが次に言い出したのはもっと驚くべきことだった。男の仕事上の理由があり、結婚式は九月の予定でこれから式場を探すというのだ。でも、今はすでに七月半ば。秋は結婚シーズンで、どこの式場もいっぱいだということを知らないのだろうか。今からとるのは大変だろう。でも、二人は来週は指輪の下見、再来週は両家の挨拶、なんてのんきなことをおっしゃっている。ダメ。婚約指輪なんていつでもいいんだって。経験者として教えてあげたい、指輪より、顔合わせより、とにかく式場を押さえるのが、結婚準備の中では一番大変なんだから、と。しかし、二人はのんびり、住む家の話なんかしてる。式場を押さえなくちゃ!このままじゃ、彼らは九月には結婚できない。それを気がつかせるには、どうすればいいんだろう。一番、簡単なのは今ここで私が「あの~、ちょっと失礼します。私、怪しい者じゃありません。でも、結婚式場は何より早めに押さえた方がいいですよ」と忠告してあげることだろう。しかし、さすがにそれはできないよなぁ。
隣のおせっかいな中年女が頭が痛くなるほどヤキモキしていることも知らず、二人の話は自分たちの親戚のことに移っていた。
実は、彼女の母親は、彼女が乳飲み子のころ家を出た(外に男ができたらしい)、それから父方の祖母が彼女を育ててくれた。最近になって彼女は実の母親と再会を果たした。結婚式にはだれか身内の女性が花嫁である彼女に付き添うべきであろうが、祖母は高齢でその役はできないし、やはりそれは実の母親が適任だろう。でも、彼女としては自分を捨てた母親に結婚式に来てほしくない。いっ
たい、だれが自分に付き添うべきなのか.....。
私はまた、二人に教えてあげたくなった。普通の結婚式場やホテルならプロの付添い人が付くんだよ、身内の付き添いなんてむしろじゃまなだけなんだよ。それにしても、彼女、そんなことは友達に相談すればいいのに、さっきの式場のことといい、結婚した女友達に聞けば、すぐにわかることなのにと思っていたら、彼も同じように考えたらしく、「誰かお友達に聞いてみたら、どうでしょう」と尋ねた。ところが彼女はきっぱりと言い切った。
「いいえ、あたし、友達がいないので」
女友達いないのかぁ、じゃあしょうがないよなぁ、と私は彼女の顔を盗み見た。確かに一見おとなしそうだけど、意固地でちょっと頑固そう、簡単に友達を作ったりするのはむずかしいタイプなのかもしれない。
ああ、もうじれったいなぁ、本当に話しかけてしまおうかしら、と思ったその時、「女の子なら、そういうのは心配だよね。僕もそんなに友達が多い方じゃないから、兄の嫁さんに聞いてみようか」と彼が言った。
「ええ、そうしてくれるなら.....お願い」
私ははっと気がついた。彼らは丁寧語をやめて、ためぐちで話しはじめている。彼女の口調にはごくわずかな甘えがあり、彼の方には少しだけど確かな自信が芽生えていた。どちらも最初にはなかったものである。ここに来て一時間、彼女が自分の家族の悩みを打ち明けて、確実に彼らの中は深まっていた。ああ、今、彼らは結婚したのだ、と思った。
二人ともどちらかというと不器用でいろいろ苦労してきた人のように見えた。モテたり要領よく人生を渡ってきた人には見えなかった。でも、まっとうに人生を歩んできた二人が結婚相談所で伴侶を見つけて、幸せをつかもうとしている。スイスイ人生を渡っていけるような人間の方が本当はずっと少ない。きっと彼らはそういうことをよくわかっている、強い人なのじゃないか、と思った。
これから、彼の部屋に行き、家具をチェックして足りないものを買い足そうね、と言い合って、彼らは席を立った。その後ろ姿を見ながら、私は心から二人の幸運を祈った。
もしかして、彼の部屋ではじめて「接吻」をするのかな、とちょっとうらやましくもなったのである。